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堀川の淺場太郎左衛門第0079話で紹介したように,、堀川の淺場太郎左衛門は、1786(天明6)年7月17日の洪水に祖父が、1803(享和3)年5月19日の洪水に父が堀川(引地川)の堤防を建設して復旧したことを記念し、孫の浅場太郎左衛門は記念碑を建碑した。この碑は後に1932(昭和 7)年になって子孫の淺場虎吉が再建し、引地川改修工事後は鵠沼海岸 4-21-8 地先 引地川堤上に移動して今日に至っている。また、これより先太郎左衛門は、1751(寛延 4)年、「南無道祖神 守護」と彫られた珍しいタイプの道祖神文字塔を八部の路傍に建てている。これは後に頭部を残して地中に埋もれていたのを「鵠沼を語る会」が発見し、藤沢市教育委員会と地元町内会(堀川郷友会)に働きかけて、1987(昭和62)年11月12日に現在地に移設したということは、第0064話で紹介した。 堀川の淺場太郎右衛門堀川の豪農、淺場太郎右衛門は、4回も高野山登山を行うなど、熱心な真言宗信徒だが、下総四国八十八箇所札所を巡礼し、地元でも同様なものをつくることを発願した。彼は1806(文化 2)年に志半ばで他界し、その遺志は息子の淺場太郎右衛門(同家当主の名は太郎右衛門として継がれた)に引き継がれた。息子の淺場太郎右衛門は、父他界の翌年普門寺住職に相談し、相模國準四國八十八箇所の創設に取りかった。 一方、淺場太郎右衛門は、札所に相応した御詠歌も作成した。「本四国」の八十八ヶ所の御詠歌は、それぞれの札所で作ったとされるが、太郎右衛門は、それをおそらく一人で作ったのである。 この活動については第0084話で紹介した。 原の淺場太郎右衛門原の淺場太郎右衛門は、鵠沼きっての豪農である。1872(明治 5)年の史料によれば、水田=3.8607町歩、畑=28.8024町歩、山林=1.5501町歩を所有し、年間66.276石を生産している。また、この頃には屋根のてっぺんの両端の瓦のうえに千両箱のうだつが上がっていたという。 同家は当時21軒あった淺場家の総本家だったとされるが、戦後になって鵠沼を去った。従って、淺場家に関する史料は見つけることが極めて困難な状態にある。 次は明治初期における淺場家一覧である。原・堀川を中心に南部に多い。
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