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第0089話 
旧家4 淺場家

 淺場家は鵠沼地区最大の富農を生み、これまで紹介したように、堀川(引地川下流部)の築堤をしたり、相模國準四國八十八箇所を創設したり、重要な活動を担ってきた。明治以降も鵠沼郵便局の初代局長や第三国民学校の校長を務める人物が出る。しかし、髙松家・齋藤家・關根家と違ってその出自が明確に記された史料が見当たらない。また、政治方面で重要な役割を担った人物は少ないようである。

堀川の淺場太郎左衛門

 第0079話で紹介したように,、堀川の淺場太郎左衛門は、1786(天明6)年7月17日の洪水に祖父が、1803(享和3)年5月19日の洪水に父が堀川(引地川)の堤防を建設して復旧したことを記念し、孫の浅場太郎左衛門は記念碑を建碑した。この碑は後に1932(昭和 7)年になって子孫の淺場虎吉が再建し、引地川改修工事後は鵠沼海岸 4-21-8 地先 引地川堤上に移動して今日に至っている。
 また、これより先太郎左衛門は、1751(寛延 4)年、「南無道祖神 守護」と彫られた珍しいタイプの道祖神文字塔を八部の路傍に建てている。これは後に頭部を残して地中に埋もれていたのを「鵠沼を語る会」が発見し、藤沢市教育委員会と地元町内会(堀川郷友会)に働きかけて、1987(昭和62)年11月12日に現在地に移設したということは、第0064話で紹介した。

堀川の淺場太郎右衛門

 堀川の豪農、淺場太郎右衛門は、4回も高野山登山を行うなど、熱心な真言宗信徒だが、下総四国八十八箇所札所を巡礼し、地元でも同様なものをつくることを発願した。彼は1806(文化 2)年に志半ばで他界し、その遺志は息子の淺場太郎右衛門(同家当主の名は太郎右衛門として継がれた)に引き継がれた。
 息子の淺場太郎右衛門は、父他界の翌年普門寺住職に相談し、相模國準四國八十八箇所の創設に取りかった。
 一方、淺場太郎右衛門は、札所に相応した御詠歌も作成した。「本四国」の八十八ヶ所の御詠歌は、それぞれの札所で作ったとされるが、太郎右衛門は、それをおそらく一人で作ったのである。
 この活動については第0084話で紹介した。

原の淺場太郎右衛門

 原の淺場太郎右衛門は、鵠沼きっての豪農である。1872(明治 5)年の史料によれば、水田=3.8607町歩、畑=28.8024町歩、山林=1.5501町歩を所有し、年間66.276石を生産している。
 また、この頃には屋根のてっぺんの両端の瓦のうえに千両箱のうだつが上がっていたという。
 同家は当時21軒あった淺場家の総本家だったとされるが、戦後になって鵠沼を去った。従って、淺場家に関する史料は見つけることが極めて困難な状態にある。

 次は明治初期における淺場家一覧である。原・堀川を中心に南部に多い。
屋敷番号 集落 当 主 名 屋    号 備      考
51 宮ノ前 淺場弥五兵衛 やごべいえさま  
54 宮ノ前 淺場武右衛門 ぶえむさま/たねや 元種苗商
87 清水 淺場平左衛門 八ちゃん  
88 清水 淺場八左衛門 川端  
92 苅田 淺場太右衛門 太右衛門様/藷敬さん 藷問屋
93 苅田 淺場杢右衛門   豪農。92の三男
98 苅田 淺場権左衛門 ごんべいさん  
123 淺場勇次郎 新屋敷 30石弱を生産する豪農。126の二男
126 淺場太郎右衛門 浅場屋敷 66石余を生産する村一番の豪農
128 淺場定次郎 あらやしき 173の二男
154 淺場文四郎 新屋敷  
165 堀川 淺場金四郎 しんや/あんまさま 元按摩
166 堀川 淺場清五郎 あらや/でい 165の分家?
168 堀川 淺場七郎右衛門 大清さん 大工
169 堀川 淺場三十郎 文七さん 富農 太郎右衛門の子孫
170 堀川 淺場吉右衛門 にいや  
173 堀川 淺場金兵衛 金べいさま  
173 堀川 淺場定次郎 しんや 金兵衛の二男。別家
175 堀川 淺場清四郎    
176 堀川 淺場重兵衛 重べいさま  
266 引地 淺場杢次郎    

淺場家年表
    
西暦 和暦 記                        事
1711 正徳 1 7 4 淺場重右衛門ら5名、高野山に登山
1725 享保10 7 1 淺場伝右衛門ら10名、高野山に登山
1740 元文 5 1 26 淺場十郎右衛門ら3名、高野山に登山
1743 寛保 3 6 10 智光房・普門寺・淺場太郎右衛門ら7名、高野山に登山
1743 寛保 3 6 15 淺場孫右衛門ら8名、高野山に登山
1751 寛延 4 1 淺場太郎左衛門、鵠沼海岸6-7-1地先堀川の道祖神塔(文字塔)、造立
1771 明和 8 8 24 淺場太郎右衛門、高野山に登山
1773 安永 2 3 19 普門寺・淺場太郎右衛門ら7名、高野山に登山
1780 安永 9 3 19 普門寺・淺場三重郎ら14名、高野山に登山
1784 天明 4 7 26 鵠沼海岸7-5-16淺場家墓地の春日型灯籠1対、造立
1786 天明 6 4 9 淺場幸右衛門ら16名、高野山に登山
1786 天明 6 7 17 引地川・境川氾濫、大鋸橋流失、本願寺倒壊→淺場家による引地川築堤工事
1783 寛政 5 2 1 淺場金兵衛ら13名、高野山に登山
1799 寛政11 1 23 淺場太郎右衛門ら4名、高野山に登山
1803 享和 3 ウ1 3 淺場太郎右衛門ら6名、高野山に登山
1803 享和 3 5 19 引地川、2か所で破堤・境川水害、藤沢宿被害→淺場家による引地川築堤工事
1806 文化 2     先代淺場太郎右衛門(堀川。相模準四国八十八箇所の創設発願者)、志半ばで没
1806 文化 3     淺場太郎右衛門(堀川)、普門寺住職に相談し相模準四国八十八か所の創設開始
1808 文化 5 8 15 淺場太郎左衛門、堀川改修記念碑創建
1821 文政 4 2 26 淺場太郎左衛門ら6名、高野山に登山
1821 文政 4 3   淺場太郎右衛門、普門寺境内に大師石像と大師堂建立
1827 文政10 2 1 淺場弥五兵衛ら12名、高野山に登山
1827 文政10 3 1 光明真言講、淺場太郎右衛門の言葉を彫った供養塔を普門寺境内に造立
1827 文政10 8 30 淺場太郎右衛門、没(光明院阿室見照居士)
1827 文政10 9   淺場邸内の堀川地蔵堂脇の準四国八十八箇所霊場第56番札所標柱、造立
1841 天保12 ウ1 10 淺場太郎右衛門ら14名、高野山に登山
1847 弘化 4 2 15 淺場太郎左衛門ら8名、高野山に登山
1847 弘化 4 9 12 淺場太郎右衛門、没(蓮台現阿自覚居士)
1848 弘化 5 1 29 淺場源兵衛ら7名、高野山に登山
1856 安政 3 2 6 淺場太郎右衛門ら12名、高野山に登山
1872 明治 5     この頃まで原の淺場家には千両箱の?(うだつ)が上がっていた
1907 明治40 1 1 鵠沼郵便局、現鵠沼海岸2-8-26に開設(初代局長=淺場金兵衛(1927年まで))
1916 大正 5 12 25 鵠沼海岸7-5-16淺場家墓地の宝顕院徳聲文教居士墓碑、造立
1932 昭和 7 8 23 淺場虎吉、堀川改修記念碑を再建。現在鵠沼海岸 4-21-8 地先 引地川堤上に移動
1944 昭和19     第三国民学校長=石川明雄→淺場幸蔵(1945年まで)
1970 昭和45     淺場石油㈱ (ガソリンスタンド)、鵠沼海岸7-19-20に開業
E-Mail:

鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭

[参考文献]
  • 有賀密夫:明治初期の鵠沼村(その一)『わが住む里』第43号藤沢市総合市民図書館(1992)
 
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