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万福寺境内の参道左手墓地に、阿部松翁の墓と阿部石年の小さい墓碑が並んでいる。 阿部松翁阿部松翁は本名を阿部松村といい、1817(文化14)年没している。阿部松村は藤澤宿の儒者で文化人。万福寺を拠点に開かれていた俳諧の集い「鵠沼連」(後述)の師匠だったらしい。 墓石は極めて小さく、正面には「松翁先生墓」、右面には「文化十四」とあるのみの簡素なものだが、「先生墓」とあるからには、一種の筆子塚と考えることができるだろう。 市教委の編纂した「藤沢市教育史」史料編には「筆子塚銘文」の一例として紹介されている。 もう一つは吉成弥四郎を師匠とするもので、場所は不明である。吉成弥四郎は1833(天保 4)年8月22日に死去し、それによって廃業した。 初め藤澤宿の常光寺に葬られたが、この墓は後に万福寺に移されたという。 阿部石年阿部石年は阿部松村の子息で、去道(元道)、宝所、無尽老人などと号し、書家として知られていた。東海道各宿駅における文化人の人名録『東海道人物志』には、医学・詩・文の項目に安倍元道の名で紹介され、藤沢宿において活躍した文化人である。また、『東都日暮里本行寺物見塚記』には相模の俳人7人の名が紹介されており、鴫立庵の庵主を務めた葛三や雉啄と並び石年の名も紹介されている。石年の句は『卯の花くもり』『頓写のあと』『鴫の井』『豆から日記』『的申集』などの句集に寄せられており、これらの俳諧書は鴫立庵系の俳人が多く、石年も鴫立庵系と考えられている。 1835(天保6)年3月14日に68歳で歿し、はじめ藤澤宿の常光寺に葬られたが、後に万福寺に移された。石年が書いた碑や掛物は藤沢市内で多く見ることができる。 例えば、江の島の江島神社中津宮参道にある「猿田彦大神」碑の筆跡が阿部石年のものとされる。この碑に書かれている「猿田彦大神」とは、記紀神話の神で、天孫「ににぎのみこと」降臨の際、高千穂までの道案内を務めた神といわれ、中世以降、「庚申信仰」や「道祖神信仰」と習合した。
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