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第0222話 桃源郷鵠沼

鵠沼の桃栽培

  鵠沼は全体に湘南砂丘地帯と呼ばれる海岸平野(浅い海底が陸化した平野)なので、砂地で養分が少なく、保水力が乏しい。このため、栽培可能な農作物は限られる。また、飛砂や塩害との闘いも加わる。
 大都会江戸の外縁部に当たる川崎(当時は橘樹(たちばな)郡)は早くから商業的な農業(近郊農業)が発達していた。また、幕末、横浜の開港を機に外国人(欧米人、中国人)の居留により、それまでにない食文化が持ち込まれ、畜産、酪農といった新しい農牧業が横浜市南部(当時は久良岐(くらき)郡)に見られるようになる。明治に入ると、主要輸出品であった生糸生産のために、相模野台地を中心に一大養蚕地帯が形成されていった。
 鵠沼の農業が自給的なものから商業的な農業に発展するのは、明治初期以来である。
 かつての鵠沼は「桃源郷」と呼ばれるほどモモの栽培が盛んで、3月の雛祭りの頃には近郷からモモの花見に鵠沼に来るのが年中行事だったという。モモの栽培がいつ頃から始まったかは明確な記録が見当たらないが、これも川崎方面から伝わったとされる。1887(明治20)年鉄道開通時の記録に「藤沢と鵠沼の境の桃畑の中に藤沢停車場が置かれた」とあるから、それ以前から栽培が始まったと思われる。1915(大正4)年、神奈川県農事試験場(横浜市岡野町)が白桃と橘早生を交配して新品種を開発、これが昭和に入って「白鳳(はくほう)」と名付けられ、鵠沼での主力品種となった。仲東の宮崎家は1922(大正11)年の平和記念東京博覧会に出品し、銀牌を獲得した。(下に賞状)鎌倉の市場に出荷された最高級品は、葉山御用邸御用達(ごようたし)となり、大変な名誉だったという。しかしそれも1940(昭和15)年までで、戦争が始まると奢侈品(しやしひん)だということで伐採が命じられ、姿を消した。

鵠沼の桃と文化

 『桃園譜』 田中隆尚
 ちやうど桃の花が畑一面に咲きにほつてゐた。藤澤驛から私鐵の小田急に乘換へて一驛來たとき、五番目の兄の隆泰は私を促して乘場におりた。兄の隆泰は私の知らせで藤澤驛まで迎へにきてくれてゐたのである。乘場から東の方に樹木の生ひ茂つた丘が横ふし、そこに椰子の木のやうにひよろ高くて冠のある松が二本立つてゐるのが見えた。
 「あの松の木の下だ」と、兄の隆泰は私に指し示した。
 郷里の長府の父の家はすでに明け渡して、私は中學を卒業する直前の三ケ月おなじ長府の叔母の家に起居し、今はじめて母の移り先の鵠沼の借家にゆくところであつた。驛から左に折れて東にむかふと商店街になつてゐたが、店舗はまばらの、空地のある閑散とした通りで、田舎道といつた方がよかつた。その通りがしばらくつづいて十字路に出ると、商店はそこで盡きて、その先はいづれの方向も畑か住宅になつてゐた。左に折れて北にむかふと、左が畑で右は驛から見えてゐた低い丘が道に沿つて走り、丘のうへに立ち並んだ住宅が西の方を見おろしてゐた。住宅はかなり古く、思ひ思ひの建て方で、純和風の家があるかと思ふと和洋折衷の家もあり、いづれも屋敷は石垣で築いて、その上に樹木をめぐらしてゐた。左の畑は麥畑か桃の畑で、麥畑のなかにも間をおいて桃の木が植ゑてあるところもあつた。しばらくゆくと空地になり、ちやうど海濱のやうに地面になだらかな起伏があらはれてゐた。あきらかに砂地で、私は今歩いてきた道も砂地であつたことに改めて氣がついた。空地の反對側に様式も何もない粗末な丸木の門柱が立ち、檜の木の垣根が道路と界してゐた。  「ここだ」と兄の隆泰は言つた。  それは裏門であつた。門を入ると、コンクリイトの細い道が一條砂地の斜面を登り、斜面は桃畑になつてゐて、中腹に離れの小屋が一軒ぽつりと立つてゐた。(以下略)

※ 田中隆尚は言語学者。1936年春、山口県長府から鵠沼2442(鵠沼桜が岡4-15-7)の砂丘上に移住し、一高→東大独文に進む。
 1943年、鵠沼桜が岡3-17-23に転居。群馬大学教授として平日は群馬大学付近へ仮寓したが、2002年10月20日鵠沼で没した。

 『我が住む村』 山川菊榮
 三月は桃の節句で、田畑のへりから絹のように軟かな蓬の新芽を摘み、香りの高い草餅を供へてお雛様を祭り、女子供はつゝましやかなお花見に行きました。何事も型通り、仕來り通りのその時代には、お花見の季節といへば、判で押したように毎年キチンとお花見に出かけたものです。これは女子供の遊びの日で、所は桃の名所、鵠沼の高砂あたりが多かつたようです。今は高砂通りも家ばかりで、東京の住宅街のような詰らぬ所になつてしまひ、海が見える所ではありませんが、もとはその名の通り、強い南風で吹きよせられた高い砂の山でした。その高い砂山の桃林の中から、遙かに蒼い海原を見渡しながら、お辨當を開き、濱へおりては鰯の地引網や、用意して行つた鎌で貝を掘り出したりして、一日のんびりと遊んだものです。(以下略)

※ 山川菊榮は評論家・婦人問題研究家。1916年、経済学者山川均と結婚し、1921年から1926年まで鵠沼海岸に住んだ後鎌倉材木座に転居し、1936年から村岡(当時は鎌倉郡、後に藤沢市に合併)に住んで、ウズラの飼育で生計を立てた。この村岡の様子を聞き書きし、『我が住む村』にまとめて1943年に刊行した。

 思ひ出づる 桃の畑の花ざかり 若かりし夫と 鵠沼に住みき  和辻 照

※ 和辻 照は哲学者=和辻哲郎の妻。貿易商=瑙三郎の長女として横浜に生まれ、江ノ電開通(1902(明治35)年)後、江ノ電柳小路〜鵠沼間の東側砂丘一帯に三郎が入手した二万坪以上といわれる敷地に建てた「鵠沼御殿」と噂される豪邸で少女時代を暮らした。1911(明治44)年、兄=彌一の先輩、和辻哲郎が帝國大學の卒業論文を執筆するために瑙邸の離れに長期滞在し、完成後直ちに照に求婚、翌年結婚した。和辻夫妻は1915(大正4)年〜1918(大正7)年、瑙家の離れに居住した。この歌はその時代を思い出して後に詠んだもの。
E-Mail:

鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭

[参考文献]
  • 田中隆尚:『桃園譜』(1972)
  • 山川菊榮:『我が住む村』(1943)
  • 和辻 照:『和辻哲郎とともに』(1966)
 
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