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自然災害この時代の自然災害で最大のものは、何といっても1923(大正12)年9月1日に起きた大正関東地震による「関東大震災」だが、余りにも大きい災害なので、別項をいくつか立てる。この時代には、1917(大正6)年と1921(大正10)年の2度にわたって河川の流路がつけ替わるような水害が起きている。片瀬川(境川下流)はこれを機に改修工事が進められたが、引地川の改修は昭和に入ってから神奈川県の手で行われた。このことについても別項を立てる。 スペイン風邪今年3月11日の「平成23年(2011年)東北地方太平洋沖地震」による「東日本大震災」による死者・行方不明者数は未だ明確になっていないが、2万人を突破するとされる。大部分は津波による犠牲者である。日本史上最大の自然災害といわれる「関東大震災」の犠牲者数は10万5千人とされ、大部分は火災によるものである。これらは、地球全体から見れば局地的な災害である。 20世紀に入って、地球上のかなり広範囲に犠牲者を出す「世界大戦」が二度も起こった。ことに第二次世界大戦では、1発で20万人以上を殺害するという核兵器まで登場し、全世界で非戦闘員を含めて1千万を超す犠牲者が出たと推定されている。 しかしである。これらよりももっと恐ろしいのが感染症であるということを、ともすると忘れがちである。 紀元前からヨーロッパで数度にわたって大流行し、時に人口の半分が失われたというペストや、19世紀に世界中で大流行し、開国期の日本にも上陸したコレラは、歴史の教科書にも掲載されている。 そして大正期半ば、未曾有の感染症パンデミック(大流行)が全世界に拡がった。「スペイン風邪」の別名で知られるインフルエンザのパンデミックである。 1918年に米国で発生し、3波にわたって繰り返され、全世界で感染者6億人、死者4,000~5,000万人とされる。 日本での流行は1919年秋~1920年初頭にかけての第3波の影響が大きく、当時の人口5,500万人に対し39万人(当時の内務省は39万人と発表したが、最新の研究では48万人に達していたと推定されている)が死亡した。 鵠沼地区の死者はどうであったかの資料を見つけていない。 近年の研究では「スペイン風邪」の病原体は、A型インフルエンザウイルス(H1N1亜型)であったことと、鳥インフルエンザウイルスに由来するものであった可能性が高いことが証明された。 「スペイン風邪」が猛威を振るう中、歌人與謝野晶子は、『横浜貿易新報』(現・神奈川新聞)の紙上で政府の対応の鈍さに不満を語っている。 「大呉服店、学校、興行物、大工場、大展覧会等、多くの人間の密集する場所の一時休業を(なぜ)命じなかったのでせうか」與謝野一家には11人の子供がいたが、一人が小学校で感染したのをきっかけに、家族全員が次々に倒れた。政府への不満は、子を持つ親として当然の心情だったのだろう。 與謝野晶子といえば、第0215話で、1920(大正 9)年12月9日に東屋に北原白秋らと泊まったことを写真入りで紹介したところだが、その時に詠んだと思われる歌を第0014話で紹介しておいた。ところでそこには詠んだ日付を「1920.3 東家にて」と紹介してある。原典としたのはそれぞれ孫引きなので、正確な原典をあたれば解決する問題である。 なぜこのような齟齬が生じたのかというと、原典がいずれも縦書き筆文字であることによる。縦書き筆文字だと、「三」と「一二」の区別をつけにくい。この時詠んだ晶子の歌は「鵠沼の松の間に来てあそぶ 波かと見ゆる春の雪かな」というものだが、「春の雪」というからには3月に違いないと思い込んでいた。ところがある方から「大正9年の春には、與謝野晶子はスペイン風邪を恐れて家から一歩も出られず、閉じ籠もっていたというぜ」と指摘されたのである。なるほど。 この問題解決は原典をあたるまでおあずけ。あぁ、これでやっと「鵠沼を巡る」話題になった。 |
大正期の鵠沼地区災害年表 |
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西暦 | 和暦 | 月 | 日 | 記 事 |
1914 | 大正 3 | 8 | 29 | ~30、集中豪雨により各地で浸水 |
1914 | 大正 3 | 9 | 14 | 台風西日本から関東地方に来襲被害甚大 |
1917 | 大正 6 | 4 | 26 | 霜害で農作物被害大 |
1917 | 大正 6 | 9 | 30 | 境川、暴風雨による氾濫のためほぼ現在の河道に付け変わる。高波で堀川の田が全滅 |
1918 | 大正 7 | 8 | 6 | 台風で江の島その他浪害を受ける |
1919 | 大正 8 | 10 | 10 | 雷・雹により高座・鎌倉その他畑作に被害 |
1919 | 大正 8 | ~1920年、流行性感冒大流行(スペイン風邪・相模風邪) | ||
1920 | 大正 9 | 10 | 1 | 大雨のため浸水で江ノ電不通 |
1921 | 大正10 | 9 | 25 | 暴風雨のため浸水で江ノ電不通 |
1921 | 大正10 | 10 | 29 | 大暴風雨により江ノ電の川袋の線路が流され、一方引地川の流路が付け変わる |
1922 | 大正11 | 4 | 26 | 南関東で地震(M=6.9震度6.3)(浦賀水道地震) |
1923 | 大正12 | 9 | 1 | 大正関東地震(震源:相模湾東部、M=7.9) 藤沢町被害=家屋3200、死者104、重傷者216 |
1924 | 大正13 | 1 | 15 | 地震(M=7.3震度5.0)。藤沢北部で被害大 高座郡被害家屋3000軒 死者7名(丹沢地震) |
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鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭 |
[参考文献]
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