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摂政宮(後の昭和天皇)が総監江戸幕府の相州炮術調練場(鉄炮場)跡地は鵠沼の場合、大給子爵家が大部分を入手し、ここに日本初の大型別荘分譲地《鵠沼海岸別荘地》が伊東將行らによって開発されたことは、これまでいくつかの話題にしてきた。辻堂の場合は、明治初期に日本海軍横須賀鎮守府の砲術試験場および陸戦演習場となった。 演習の際には横須賀から辻堂まで兵士は徒歩で行軍し、途中の鵠沼海岸でも演習が行われた。 1921(大正10)年11月18日に鵠沼海岸で挙行された海軍陸戦隊の上陸演習には、摂政宮(後の昭和天皇)が総監を務められた。左の写真が視察の様子である。 津波を防いで消えたお立ち台の砂丘この写真が撮影された位置から内陸方向を望んだのが右の写真である。「お立ち台」となったのは、汀線に平行する比高10mを優に超す海岸砂丘の頂上部である。 この砂丘の存在は、やがて起こる1923(大正12)年9月1日の大正関東地震による津波から鵠沼海岸東部を護った。 震源に近い湘南海岸には、地震発生直後に津波が襲うのだが、平均6m、痕跡が最大9mの津波による被害が生じ、また、沿岸の地盤が隆起し、鵠沼海岸の隆起量は90cmとされている。 鵠沼海岸の津波は、主に引地川を遡上し、浜辺にあった漁船を現在の八部公園あたりにあった堀川田まで運んだという。その引き波で既に倒壊していた家屋を5軒ほど流失させた。堀川田は塩害で暫く使えなくなった。 ところが、現在の鵠沼海岸一丁目は、この砂丘のおかげで津波の被害は全く受けないで済んだ。しかし、津波の後で気付いたら砂丘が消えてなくなっていたという。 日本初の組立家屋(プレハブ)=内藤邸は、基礎部分と20cm程度ずれが生じたものの無事で、庭先からそれまで望めなかった江の島が見えるようになっていた。 鵠沼海岸二丁目あたりでは、砂丘が低かったせいか、津波による海水が東屋旅館の庭池にザブザブ入り込んだという記憶を持っておられる方もいる。 | ||||||
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