|
硯友社とは第0140話および第0146話で紹介したように、1908(明治41)年5月23日、文学結社=硯友社(けんゆうしゃ)一行は、東屋へ「旅行会」を行っている。このことが東屋を「文士宿」として知らしめたきっかけであるとする説が見られるが、長谷川ゑいが初代女将となって間もない1897(明治30)年秋に、硯友社同人の広津柳浪(1861-1928)が東屋に滞在し、小説『くされ縁』を執筆したことが契機ではないかと思う。いずれにせよ、硯友社が東屋を愛用したのは、同人の一人川上眉山が片瀬に居を構えていたことの影響が強かったといえよう。先述のように東屋の宿帳は残っていないので、記録は限られている。 東屋に来る前の長谷川 榮(ゑい)は、神楽坂箪笥町の名料亭=《吉熊》の女中頭をしており、才色兼備で人気があったという。硯友社の面々はこの《吉熊》をしばしば利用していた。 硯友社とは、明治期の文学結社である。1885(明治18)年2月、帝國大學預備門(後の旧制第一高等學校)の学生だった尾崎紅葉、山田美妙、石橋思案、丸山九華が文学同好会「文友会」「凸々会」をつくった。これが発展し、永遠に友でいるという意味で硯友社と称したという。同年5月、日本初の純文芸雑誌である『我楽多文庫』を創刊している。 本部は東京の九段にあった。現在は、和洋九段女子中学校・高等学校が建ち、校内の100周年記念資料室に、硯友社に関する資料が保存してあるという。 1908(明治41)年5月23日の硯友社旅行会は「思案、眉山、桂舟、龜石、小波、程山、風谷、柳浪といふ顔觸で、翌日、水蔭と眉山は片瀬の旧居沙地浪宅跡を訪れ、帰京の途次神奈川で別れる。これが水蔭にとって眉山との永遠の別れとなった。」と『自己中心明治文壇史』にある。この時のメンバーは以下の通りで、尾崎紅葉は参加していない。
|
E-Mail: |
鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭 |
[参考サイト] |
|
BACK TOP NEXT |