鵠沼は全体に海岸平野だから、海岸砂丘列の起伏はあるものの、平坦な土地といえる。
従って、見晴らしの良いところで、ことに右に丹沢山地、左に伊豆箱根の山々を従えた富士山の姿は圧巻といえる。
県立湘南海岸公園は2005年、国土交通省 関東地方整備局から「関東の富士見百景」の一つに登録されている。
その西端に当たる引地川河口からの山岳展望のシミュレーション画像を制作してみた。
東京や横浜からの富士山は、手前に丹沢山地が来るために頭が覗いているだけで、左手に宝永山の出っ張りがあって左右対称ではないが、鵠沼を中心とする湘南地方から望む富士山は、丹沢と箱根の間の低くなった部分の向こうにあるため、かなり裾野の部分から見える。そのため、高さが強調され、また、左右の山腹傾斜がほぼ揃っているため、一段と見事である。
岸田劉生と山岳展望
画家・岸田劉生は、1917(大正6)年から大震災までの6年余、転地療養のため鵠沼に住み、画家としての最盛期をここで過ごした。このことは千一話の中で後に詳述する予定である。また、2010年末、「鵠沼を語る会」の岡田哲明会員が藤沢市生涯学習大学かわせみ学園のラジオ講座で6回にわたって語られ、インターネットでも聞けるので、参照されたい。
鵠沼転地後短期間を、現在の蕎麦屋「やぶ茂」の筋向かいあたりにあった貸別荘「佐藤別荘」に住み、その年のうちに現在の湘南学園通りにあった貸別荘「松本別荘」に移った。
最初の佐藤別荘について、妻の蓁(しげる)は次のように日記に記している。
「この家は、南西の開いた見晴らしの良い家である。二階の縁に立てば西は富士山が麓までよく見えて、続く連山の朝な朝なの景色は、本当に美しい。」
松本別荘は、すぐ西側の小高い砂丘に遮られて西の展望はきかなかった。しかし、東方は開けていて、片瀬山と総称される三浦丘陵西端部の斜面を望むことができた。劉生はことにその北部の駒立山から「赤山」と呼ばれる現在の新林公園の裏山から片瀬山住宅地にかけての関東ロームの路頭が赤く目立った山がお気に入りだったらしく、何枚もの作品が描かれている。ところが、富士山をはじめ西方の山々については、絵日記にはあるが、正式の作品には見当たらない。さらに、海も江の島も出てこないのである。せっかく鵠沼に住んでいながら、誰もが関心を寄せるこれらの風景に劉生は一瞥もくれなかった。劉生の美意識の中では、誰もが関心を寄せる風景は陳腐と捕らえられたのだろうか。芸術家としての自負がそうさせたのだろうか。
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岸田劉生:窓外夏景(1921) |
岸田劉生:窓外早春(1922) |
上の2作品は、いずれも劉生が借りていた松本別荘6号の洋館2階東窓から描かれたほぼ同一アングルのものである。左の方が古く、右が新しい。題名で判るように半年あまりの時間差を以て描かれた風景である。
比べて見ると、まず、近景の印象がかなり違う。右は写真でいうとズームアウトした構図で描かれていることもあるが、松本別荘前の後に(湘南)学園通りと呼ばれることになる道路が印象的であるが、左の絵では夏草に覆われていて、そこに道路があるのかさえ判然としない。この道路は2枚の絵の描かれた半年の間に開通したようにさえ見えるが、そうではない。この道は1895(明治28)年の地積図にもすでに描かれていて、現在も松本別荘南方に見られるクランク状の部分が明治時代からあったことが判る。右はこの道路を主題に描いたように思える。
これについては、『日記』1922年3月29日に次の記述がある。
「今日は、前の道を土方が来てひろげてゐる。自働車が通る様にするのだと云ふが馬越さんのところの角でまがるまいと思ふがどんなものか、そんな事で景色がかわるのを心配したいがいざ描かうとてみたところこれは又案外で大へん美くしくかつちりとした風景になつた。何が仕あわせかしれない。(中略)いゝモテイフになつた。又新らしくこの道を主としたものをはじめてみたい気もした。」
遠景に目を転ずると、スカイライン上の急斜面が目につく。片瀬山丘陵北端にあたる駒立山北斜面で、現在の新林公園裏山に当たる。その右手に赤山が続く。現在は削られて片瀬山住宅地が開発されている。
この部分は形は同じだが、色合いはまるで違う。ことに駒立山手前の斜面は、左図では植物に覆い尽くされているが、右図では赤山より赤い崖が見られる。現在ここは新林小学校裏手にある第三紀層三浦層群凝灰砂礫岩の上に関東ロームが載った崖で、裾には横穴式古墳群もある。両図の違いは単なる季節差とは思えない。
右図の描かれた1922(大正11)年、問題の部分のすぐ手前側の片瀬川沿いに東京螺子(らし)製作所が開業した。現在の藤沢市域(当時は鎌倉郡内)では最初の大型金属加工工場で、1975年ミネベアに合併して今日に至る。開業に際して、将来の事業拡張に備えて周辺地域をかなり買収したといわれる。この崖がそのために出現したのだとしたら、劉生のこの作品は歴史の証言者ということになるのだが。
蛇足を加えると、駒立山北麓の県道にあるバス停を「富士見ヶ丘」という。富士見ヶ丘と駒立山とはイコールなのか、何人かの地元の方に訊ねてみたが、明快な回答は得られていない。いずれにせよ、駒立山は優れた富士展望台である。
長谷川巳之吉と富士見坂
戦前、凝った装丁の豪華本を多数出版することで知られた第一書房の社主・長谷川巳之吉は、1939(昭和14)年5月、海岸通りが小田急を越える手前にあった小高い砂丘上(現在の鵠沼松が岡1-17-20)に、瀟洒な洋館を新築して居住した。建物は明らかに江の島に正対して建てられていたが、反対側の富士山を中心とする西山の展望もすばらしかった。巳之吉は当初はこれをすっかり気に入り、門前の海岸通りの坂を富士見坂と命名する。
ところが、しばらく住むうちにこの展望に恐れを抱くようになった。「富士山に睨まれているような気がする」と、せっかくの豪邸を売り払い(後にこの家は長谷川一夫や山田五十鈴が別荘とする)、岸田劉生の住んだ松本別荘と鵠沼海岸駅の間の学園通りに接する鵠沼松が岡3-24-35に、1943(昭和18)年、古民家を移築し改造した風変わりな家(現存)を建てた。ここなら富士は見えないが、江の島はよく見えたに違いない。敷地の形態に関係なく、この家も江の島に正対して建てられている。
鵠沼で盟友として交流した評論家・林 達夫は、先に1937(昭和12)年、川袋の低湿地を望む砂丘上に古民家を改造した邸宅(現存)を建てていたので、これに倣ったのかと思ったら、建築士の岡田哲明会員によれば、巳之吉が建てた戦時中は、新築することははばかられたが、古民家の改造ならば許されたからだろうという。
巳之吉は戦後一線から退き、鵠沼に隠棲するが、林 達夫と共に市民文化の興隆に力を注ぎ、鵠沼で没した。いずれこの千一話に一項を起こす予定である。