|
鵠沼文化人百選「鵠沼を語る会」は、2005年秋、その創立30周年記念事業の一つとして、「鵠沼郷土資料展示室」に協力して「鵠沼ゆかりの文化人展」を開催した。その展示では、四つのジャンルに分けて全部で100人を超す文化人を紹介することができた。 基本的には鵠沼にほぼ1年以上居住した物故者に限って紹介したのだが、その中から百人に絞って(夫婦は一人と見なしているし、グループで採り上げた例もある)今回、この千一話に再掲することにした。すなわち、全体の話題の1割を占めることになる。 面白いことに、その全部が鵠沼生まれではない。幼少時から鵠沼に住んだ例は数人ある。そこで、100人目には鵠沼で生まれ、鵠沼で没した例を採り上げようと思っている。 最初に採り上げるのは、幼少時から鵠沼に住んだうちの一人で、鵠沼で没し、鵠沼に墓所のある内藤千代子である。 内藤千代子内藤千代子(1893-1925)は、明治末から大正期の文学界に一大センセーションを巻き起こした女流作家であるが、今はすっかり忘れ去られてしまった。「鵠沼を語る会」では、これを記録にとどめるべく、彼女の全著作と『女學世界』に掲載された作品を藤沢市総合図書館に寄贈し、今後会のホームページ上で公開する予定である。千代子は1893(明治26)年12月9日に父広蔵、母いくの長女として東京下谷西町で生まれたが、1896(明治29)年に鵠沼の知人の別荘に転居し、さらに翌年鵠沼本村(鵠沼海岸7-21-10 山口紋蔵宅)の農家の離れに転居した。 千代子の父広蔵は著名な象牙彫刻師であると同時に、士族階級の出伝統に基いた漢籍の素養を持つ教養人であった。千代子が3才の時に父・広蔵は鵠沼6687番地(現在の鵠沼松が岡3-20-12)に見事な松林に囲まれ、敷地面積1000坪を超える広大な土地を購入して茅葺きの屋敷を建てた。完成までに5年の歳月を要した。 幼い頃からすでに千代子の突出した才能は周囲を驚かせていた。もの覚えのいい千代子は5才の時から勉強を始めて学齢に達する頃には小学3年の過程を終えてしまい、今更行っても仕方がないと父広蔵が家庭での教育を続けた(妹かめは尋常鵠沼小学校に通った)。 鵠沼海岸での波乗りの楽しさを紹介したり、乗馬姿の写真や、日本女性として槍ヶ岳に初登頂をした記録が残るなど活発な面を持っていた。 かめの主治医との間に一男二女をもうけたが、長男は夭折し、鵠沼神明の万福寺に墓を建て、自らも32歳でその墓に葬られることとなった。 内藤千代子の作家としての活動については、別項を設ける予定である。 | ||||||
|