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第0096話 幕末の鵠沼

藩領の時代

 これまで見てきたように、江戸時代の鵠沼村は、幕府領と旗本領、それに九石ほどの空乗寺領から成っていた。
 しかし、子細に歴史を調べると、短期間藩領に置かれた時代が2度ほどあったようだ。
 最初は江戸中期の1706(宝永 3)年1月から翌年の12月までの2年足らずの間、間部詮房(マナベアキフサ)の「厚木藩」一万石の所領となったことである。この頃間部詮房は、序列が老中の次座、従四位下から老中格になったが、翌年、上野国高崎藩5万石藩主として転封し、厚木藩主時代は終わった。
 この厚木藩領が鵠沼村のどの辺であったかは、明確な記録が見当たらないが、幕府領の一部であったと思われる。

 2番目は幕末の1858(安政 5)年に鵠沼村の幕府領が細川越中守(熊本藩)預り地となったことである。これも翌年には幕府領(代官所管)に復している。いかなる事情でそうなったかは不明である。 

農民の負担

 鵠沼村の農民は、通常の農産物に対する年貢の負担だけでなく、藤澤宿の助郷村としての賦役や、鉄炮場の賦役・宿所などの負担があったが、1853(嘉永 6)年、下田が開港すると江戸・下田を結ぶ往来が繁くなり、助郷の負担が増した。
 安政に入ると、3度にわたる大地震やコレラの大流行といった災害が相次ぎ、一方では「ええじゃないか」流行などの物情騒然とした時代になってくる。

農兵制

 1861(文久元)年、江川太郎左衛門英敏の建議により、1864(元治元)年、幕府は「村方非常防方」により農兵を設置することになった。富農層を代官の監督下に武装させ、これを幕府常備軍の予備隊として利用しようというものである。鵠沼村では、1865(慶応元)年、名主・組頭・百姓代百姓各2名が「農兵相続仕法講」に加入している。
幕末の鵠沼関係年表    
西暦 和暦 記                        事
1706 宝永 3 1   鵠沼村幕領の一部、間部詮房(マナベアキフサ)の「厚木藩」一万石の所領となる
1707 宝永 4 12   間部詮房、国替えとなり、相模国の支配は2年足らずに終わる
1728 享保13     幕府鉄炮方=井上左太夫貞高、享保の改革で湘南海岸に相州炮術調練場(鉄炮場)を設置
1831 天保 2     藤沢宿支配代官=江川太郎左衛門英龍
1850 嘉永 3     片瀬、鵠沼、辻堂村に鉄炮場が増設
1853 嘉永 6     江川英龍、若年寄本多越中守に従い関東南部の海岸を巡視。鵠沼村より見廻役2名選抜
1853 嘉永 6     下田開港→江戸・下田を結ぶ往来が繁くなり、助郷の負担が増す
1855 安政 2 10 2 江戸安政大地震(M=7.5震度5.9) 藤沢宿も潰家多数。→新田の一部住民、納屋に移住
1855 安政 2     藤沢宿支配代官=江川太郎左衛門英龍、没。享年55。子=江川太郎左衛門英敏が嗣ぐ
1858 安政 5     鵠沼村、細川越中守(熊本藩)預り地となる
1858 安政 5     コレラ大流行
1859 安政 6 2   鵠沼村、幕領(代官所管)に復する
1859 安政 6     横浜開港、藤沢の村々は外国人遊歩区域内となる
1862 文久 2     藤沢宿支配代官=江川太郎左衛門英敏、没。享年24。弟=江川太郎左衛門英武が嗣ぐ
1864 元治 1 8   「村方非常防方」により農兵を設置
1865 慶応 1 10 8 鉄炮場検見[御鉄炮場内新開御検見諸用帳]
1865 慶応 1 12   鵠沼村から名主・組頭・百姓代百姓各2名が農兵相続仕法講に加入
1866 慶応 2 10 25 鉄炮場検見[御鉄炮場内新開御検見諸用帳]
1868 慶応 4 3 官軍東征軍、藤沢宿を通過
1868 慶応 4 10 10 東幸の明治天皇、藤沢行在所(遊行寺)に止宿
1868 明治 1 6 29 高座郡諸村、韮山県の管轄下におかれる(県知事:江川太郎左衛門英武)
1868 明治 1 7   相模国県知事江川太郎左衛門とあり
1868 明治 1 8   空乗寺領=9石分、上知
1868 明治 1 9 21 神奈川府を神奈川県と改称。韮山県の管轄下の高座郡諸村、神奈川県管轄下におかれる
1868 明治 1 9   征東大総督一品中務卿有栖川宮熾仁親王御東下の砌、皇大神宮の御染筆を賜る
1868 明治 1     相州炮術調練場が廃止される
1868 明治 1     青ヶ島遠島になった大筒役佐々木卯之助、赦免
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鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭

[参考文献]
  • 藤沢市:『藤沢市史』第五巻(1974) 
 
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