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白浪五人男『青砥稿花紅彩画』(あおとぞうし はなの にしきえ)は、二代目河竹新七(黙阿弥)作の「白浪物」の歌舞伎の演目で、1862(文久2)年江戸市村座で初演された。通称は『白浪五人男』(しらなみ ごにんおとこ)。いわゆる「歌舞伎十八番」形成(天保年間といわれる)後の作品だが、それに劣らぬ人気のある演目である。石川五右衛門、鼠小僧と並ぶ日本屈指の盗賊「白浪五人男」の活躍を描く。二幕目第三場「稲瀬川勢揃いの場」では「志らなみ」の字を染め抜いた番傘を差して男伊達の扮装に身を包んだ五人男の名乗りが最大の見世場である。花道を堂々と登場後、舞台に来て捕り手を前に五人組が勢揃い。一人ずつ「渡り科白」で見得を切り、縁語や掛詞を駆使した七五調のリズミカルな「連ね」で名乗る姿には歌舞伎の様式美が凝縮されている。 そこには、鎌倉から大磯に至る湘南の地名がちりばめられている。舞台面は大川(隅田川)なのだが、将軍のお膝元である江戸を遠慮して、鎌倉の稲瀬川ということになっている。実際の稲瀬川は長谷を流れる細流で、とても歌舞伎の舞台になるような流れではない。「稲瀬」を「鯔背(粋)」に懸けたに過ぎない。 「稲瀬川勢揃いの場」の地名その「稲瀬川勢揃いの場」での科白から湘南の地名を拾ってみよう。弁天小僧菊之助 さてその次は江の島の岩本院の児(ちご)あがり、ふだん着慣れし振袖から髷も島田に由井ヶ浜、打ち込む浪にしっぽりと女に化けた美人局(つつもたせ)、油断のならぬ小娘も小袋坂に身の破れ、悪い浮名も龍ノ口土の牢へも二度三度、だんだん越える鳥居数、八幡様の氏子にて鎌倉無宿と肩書も、島に育ってその名せえ、弁天小僧菊之助。 赤星十三郎 またその次に列なるは、以前は武家の中小姓、故主のために切り取りも、鈍き刃の腰越や砥上ヶ原に身の錆を磨ぎなおしても抜き兼ねる、盗み心の深翠り、柳の都谷七郷(やつしちごう)、花水橋の切取りから、今牛若と名も高く、忍ぶ姿も人の目に月影ヶ谷神輿ヶ嶽(みこしがだけ)、今日ぞ命の明け方に消ゆる間近き星月夜、その名も赤星十三郎。 南郷力丸 さてどんじりに控えしは、潮風荒き小ゆるぎの磯馴(そなれ)の松の曲りなり、人となったる浜そだち、仁義の道も白川の夜船へ乗り込む船盗人、波にきらめく稲妻の白刃に脅す人殺し、背負って立たれぬ罪科(つみとが)は、その身に重き虎ヶ石、悪事千里というからはどうで終いは木の空と覚悟は予て鴫立沢、しかし哀れは身に知らぬ念仏嫌えな南郷力丸。 赤星十三郎と砥上ヶ原赤星十三郎の科白には、鵠沼を表す砥上ヶ原が出てくる。これは、身の錆を研ぐに砥石の「砥」を懸けただけの語呂合わせに過ぎず、特段の地域的な関係があるわけではないが、鵠沼よりも砥上ヶ原という主に鎌倉時代の文学作品に出てくる地名が用いられているのは面白い。幕末・明治期の歌舞伎の観客がこれを聞いてどれほど理解ができたかはわからないが、大山・江の島・鎌倉・金沢八景を結ぶ観光ルートの人気と共に、経路の地名に関する知識も広まっていたのかも知れない。この演目の流行と共に「砥上ヶ原」という地名にも関心が向いたに違いない。
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