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地蔵袋の新田江戸時代、鵠沼村の幕府領は藤澤宿代官の支配下にあった。このことについては、第0060話で述べたが、全部で36代の代官が交代したらしい。江戸時代後半の藤澤宿代官は、韮山代官が兼務したらしく、ことに幕末4期は江川家が世襲で務めている。江川家は代々太郎左衛門を名乗ったが、中でも有名なのが第36代の英龍(ひでたつ)である。 鵠沼中学校2年生の社会見学(遠足)は、私の頃は伊豆の韮山へ貸し切りバスで出掛けた。主な見学地は頼朝が流された「蛭ヶ小島」と江川代官屋敷、そして反射炉跡である。代官屋敷では日本で初めてのパン焼き釜などの説明を受け、幕末の先覚者胆庵(たんなん)こと江川太郎左衛門英龍の偉大さを学んだが、彼が鵠沼村幕府領の代官も兼ねていたことは、この段階では知らなかった。そして、巨大な反射炉を見上げ、「砲弾羊羹」というゴム袋に入った丸い羊羹を土産に帰ったのだが、ここで造られた大筒が茅ヶ崎まで運ばれて、実弾射撃訓練に用いられたことも知らなかった。 さて、英龍が藤澤宿代官に着任した時期は、1831(天保 2)年という説(藤沢市史)と、1834(天保 5)年という説(青木美智男)とがあるが、いずれにせよ、没年は1855(安政 2)年であり、跡は江川太郎左衛門英敏が嗣いだ。 この江川太郎左衛門英龍代官の時代に、第0075話で紹介した「佐々木卯之助事件」が起こっている。藤澤宿代官は、鉄炮場の代官も兼ねていた。ことの発端は英龍が行った代官検地で、南湖村の新田開発黙認が発覚したことによる。 ところが、佐々木卯之助が黙認を咎められて青ヶ島遠島の裁断が下された翌年の1836(天保 7)年10月、「代官=江川太郎左衛門英龍が鵠沼村字地蔵袋地先の鉄炮場新田3町4反4畝余を開発した」と『御鉄炮場御新田書上帳』にある。 地蔵袋とは、引地川下流部が西に大きく蛇行していた場所で、1931(昭和 6)年に着工し、1935(昭和10)年に完成した「引地川の第3期改修工事」によって直線化し、鵠沼から切り離され、現在は辻堂太平台三丁目になっている地域である。川袋や清水集落にあった池袋とともに鵠沼地区に見られた「袋地名」の一つ。袋地名とは、河川の曲流によって形成された袋状の地形につけられる「○○袋」といった地名を指す。 関東南部海岸の巡視ペリー率いるアメリカ東インド艦隊が日本に向かっていた1858(嘉永 6)年6月18日、幕府は若年寄=本多越中守に武蔵・相模・安房・上総海岸の巡視を命じ、勘定奉行=川路聖謨、目付=戸川安鎮、韮山代官=江川太郎左衛門が随行した。『藤沢郷土史』に「嘉永六年、江川太郎左衛門英龍が若年寄の本多越中守に従って、武相総房の沿岸を巡視し、鵠沼海岸に鉄砲場(試験場たらん)を設けられるや、辻堂村より二人、鵠沼村より二人、見回役の選抜があり、名字帯刀を許された齋藤氏はその一人であり、当時の遺物として剣付き鉄砲数丁が同家に伝えられていたという。」
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