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藤沢宿初代支配代官=彦坂小刑部元正(代官頭)1596(慶長元)年に鵠沼村全域は幕府領(幕領・天領とも)に定められ、藤沢宿支配代官の管理下に置かれることとなった。その初代代官に任じられたのが彦坂小刑部(おさかべ)元正である。彦坂小刑部元正は三河国の国人で今川義元に仕えた彦坂光景の嫡男。今川氏没落後に徳川家康に仕えた父と共に、代官として活躍した。 江戸幕府成立後、関東代官に任ぜられ、相模国岡津(現神奈川県横浜市泉区)に陣屋「岡津陣屋」を置き、藤沢宿を含む東海道方面の幕府天領を管轄した。 1601(慶長 6)年6月、不正が発覚して代官を改役され、家禄も没収となった。 高座川を相武の国界とし、境川と称す彦坂小刑部元正は1589(天正11)年、当時の徳川氏が領した三河国・遠江国・駿河国・甲斐国・信濃国の総検地を奉行として取り仕切り、翌年北条氏後に関東に入府した家康に従い、天野康景、板倉勝重らと共に江戸町奉行に任じられ、江戸の発展に貢献し、主に検地や街道整備を担当した。1594(文禄 3)年にはいわゆる「太閤検地」の最終段階ともいうべき相模国・武蔵国の検地を行い、その時の記録に「高座川を相武の国界とし、境川と称す」とある。 高座川は、第0011話で記したように、全体を高座(たかくら)川(多加久良川・高倉川あるいは田倉川とも)と呼んでいた。高座郡の東の郡境をなしていたからである。最上流は高尾山南麓の草戸山でこの辺では大地沢という流れである。かつては部分的に様々な河川名が見られ、田舎川(大和市付近)、飯田川(中上流部)、俣野川(中下流部)、音無川(藤沢宿付近)などが知られる。最下流部の固瀬川はそれらよりも古くからの河川名であった。 以来、彦坂がつけた「境川」が正式名称となり、400年余たった今日に及んでいるのである。 もっとも、「相武の国界」となっているのは上中流部であり、下流部は相模国内の高座・鎌倉の郡界となっている。 御代官支配歴代「我がすむ里(巻の上)」には次の記述がある。これを手がかりに他の史料を参考にして一覧表を作成した。御治世の後、慶長年間彦坂小刑部殿始て御支配あり、それより深沢八九郎殿、米倉助右衛門殿、依田肥前守殿、寛永年中服部惣左右衛門殿、慶安年中成瀬五左衛門殿、天和年中国領半兵衛殿、貞享年中西山八兵衛殿、元禄年中古郡文右衛門殿、同十年竹村惣左衛門殿、同十三年平岡三右衛門殿、同十四年小長谷市右衛門殿、宝永年中小林又左衛門殿、正徳年中河原清兵衛殿、享保年中江川太郎左衛門殿、同年松平金左衛門殿、同九年日野小左衛門殿、同十七年斉藤喜六郎殿、寛延年中戸田忠兵衛殿、同年辻六郎左衛門殿、宝暦四年岩出伊左衛門殿、同六年志村多宮殿、明和二年伊奈半左衛門殿、池田喜八郎殿、同六年久保田十左衛門殿、同七年江川太郎左衛門殿、同年野田文蔵殿、寛政四年子四月より小笠原仁右衛門殿、同じく六月より三十六年の間大貫治右衛門殿、文政六年十一月より当分御預所として中村八大夫殿、天保二年六月廿日より江川太郎左衛門様統て、慶長元年より今年まで二百三十八年御代官三十八人、中にも韮山の御支配今に至るまで三度に及ぶ、惣じて此地は、神祖御入国己来一度も私領に入ず、泰平の世にあるすら幸ひなるに、聖代の御民となりて隔なき御仁恵を蒙る事別てありがたき身の冥加忘るべからず
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