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ところが、その開山については、不詳な点が多い。 前住職の大橋円明師が、『鵠沼』第37号に「空乗寺について」と題する文を掲載しているので、その冒頭を引用しよう。 空乗寺の建立由来空乗寺は金堀山と山号し、浄土真宗高田派で、伊勢国一乗田専修寺末、江戸澄泉寺の触下に属している。『新編相模国風土記稿』は空乗寺の由来等について「永禄年中、僧了受創建す。七世慶心の時、地頭大橋長左衛門重政、官に請て釆地の内九石余を寄附し、慶安二年八月御朱印を賜る」と伝え、大橋武部卿龍慶の開基とされているが、第二十四世慶龍はこれをうけて、その過去帳に「空乗寺は永禄八年の創立にして、了受法師の開基、大橋武部卿龍慶の開基なり。当山七世慶心法師の代、大橋長左衛門重政当山に帰依す一重政は大橋流の書道の祖にして、三代将軍徳川家光公の筆の師となる。其の功に依り慶安二年八月御朱印を項戴し、是を当山に寄附す。爾来永続せしも、維新に至り、是を返納す。堂宇は寛政年間、当山第十九世の天縦上人建立す。この堂宇老朽となり、明治三年暴風のために悉く倒壊す。明治四十年に至り、当山第二十三世慶心法師終生の事業として堂宇の再建をなす。一寒村の貧寺、しかも檀家数戸に過ぎず。遠き地に在りし中古本堂をもとめ建立す。現存の堂宇是なり」と敷桁している。慶龍の記録のうち、創建の年時を永禄八年と決めているのは、或いは他に何等かの拠りどころあってのことかも知れないが、重政が家光の「筆の師」となり、その功に依って「御朱印を項戴し、是を当山に寄附」したとあるは、寺一流の誇張した解釈が加わっている。 開山の謎第二十四世慶龍とは、先々代住職である。慶龍は開基龍慶と順が逆であるだけで同じ字を用いているため、すこぶるややこしい。空乗寺過去帳によると 寛文十三丑年八月二十日、釈勝入法師、当山一代。 延宝五丁巳年九月三日、釈了受律師 当山開基 とある。この寺伝はほぼ誤りないものであろう。とすると、さきの永禄八年草創説と齟齬することになる。 永禄年中(1558〜70)創建ということになると、開基龍慶が生まれる(1582)前だし、開山の釈了受律師が没した年(1677)から推しても、生まれる前であろう。 ということは、永禄年中創建が誤りなのか、開山の釈了受律師・開基の龍慶が誤りなのか、あるいは両方とも誤りなのかも知れない。 過去帳にある当山一代の釈勝入法師が入滅したのが寛文十三丑年(1673)八月二十日とするならば、17世紀半ばに創建と考えるのが自然であろう。 将軍家光より御朱印を賜るのが1949年であり、この御朱印の記録は、 いま空乗寺には朱印状写八通(大猷院殿慶安二年八月二十八日、常憲院貞享二年六月十一日、有徳院享保三年七月十一日、惇信院延享四年八月十一日、浚明院宝暦十二年八月十'日、文恭院天明八年九月十一日、慎徳院天保十年九月十一日、温恭院安政二年九月十一日)があるそうで、大猷院殿家光の朱印状(写)の文言は 相模国高座郡鵠沼村空乗寺領内所之内九石余事任先規寄附之詑全 可収納寺中山林竹木諸役等免除如有来永不可有相違者也 慶安二年八月二十八日 とあるから、それ以前に空乗寺が存在したことは事実である。 従って、開山は安土桃山時代ではなく、江戸初期ということは確かである。 浄土真宗高田派への改宗空乗寺は草創の当初、何れの宗派に属したかについて、これをたしかめるべき史料がない。しかし1652年(承応)、1661年(寛文)のころには浄土真宗本願寺派であったことは、大檀越であった大橋重政夫妻の法名によっても確かめられる。空乗寺は現在は浄土真宗高田派になっているが、当寺が現在の宗派に属するようになったのは、第十六世呑海の時からである。呑海は1767(明和4)年7月25日当山に歿し、宝乗寺過去帳には 恪山院釈呑海上人 当山十六世 高田派二改宗ノ住職也と記録されている。その史料として、「帰依状」一通がある。包紙に「相州鷹座郡鵠沼村、十六世空乗寺呑海江」と記し、本書の文言は次のようである。 相州高座郡鵠沼村 空乗寺 呑海 今度当山江帰依有之候為御褒美中座席 御免之旨被 仰出者也 取次 ・ 蓮 蔵 院 恵潅(花押) 元文三戌年十月二十八日 奉行 別所掃部 友貞(花押) 同 国府谷壷岐 盛時(花押) 更に同日附けをもって、随身之衣体その身一代古用御免状を、取次蓮蔵院恵海、奉行別所掃部友貞、国府谷登岐盛時の名において下附された、こうして、空乗寺は本願寺派から高田派に転じ、現在にいたったが、転派の理由は明らかでない。
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鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭 |
[引用文献]
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