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第0057話 空乗寺開山の謎

 万福寺の南方にある金堀山空乘寺(きんくつざんくうじょうじ)は、浄土真宗高田派寺院で、鵠沼に開山したのは万福寺に次いで古い。
 ところが、その開山については、不詳な点が多い。
 前住職の大橋円明師が、『鵠沼』第37号に「空乗寺について」と題する文を掲載しているので、その冒頭を引用しよう。

空乗寺の建立由来

 空乗寺は金堀山と山号し、浄土真宗高田派で、伊勢国一乗田専修寺末、江戸澄泉寺の触下に属している。
 『新編相模国風土記稿』は空乗寺の由来等について「永禄年中、僧了受創建す。七世慶心の時、地頭大橋長左衛門重政、官に請て釆地の内九石余を寄附し、慶安二年八月御朱印を賜る」と伝え、大橋武部卿龍慶の開基とされているが、第二十四世慶龍はこれをうけて、その過去帳に「空乗寺は永禄八年の創立にして、了受法師の開基、大橋武部卿龍慶の開基なり。当山七世慶心法師の代、大橋長左衛門重政当山に帰依す一重政は大橋流の書道の祖にして、三代将軍徳川家光公の筆の師となる。其の功に依り慶安二年八月御朱印を項戴し、是を当山に寄附す。爾来永続せしも、維新に至り、是を返納す。堂宇は寛政年間、当山第十九世の天縦上人建立す。この堂宇老朽となり、明治三年暴風のために悉く倒壊す。明治四十年に至り、当山第二十三世慶心法師終生の事業として堂宇の再建をなす。一寒村の貧寺、しかも檀家数戸に過ぎず。遠き地に在りし中古本堂をもとめ建立す。現存の堂宇是なり」と敷桁している。慶龍の記録のうち、創建の年時を永禄八年と決めているのは、或いは他に何等かの拠りどころあってのことかも知れないが、重政が家光の「筆の師」となり、その功に依って「御朱印を項戴し、是を当山に寄附」したとあるは、寺一流の誇張した解釈が加わっている。

開山の謎

 第二十四世慶龍とは、先々代住職である。慶龍は開基龍慶と順が逆であるだけで同じ字を用いているため、すこぶるややこしい。

 空乗寺過去帳によると
 寛文十三丑年八月二十日、釈勝入法師、当山一代。
 延宝五丁巳年九月三日、釈了受律師 当山開基
とある。この寺伝はほぼ誤りないものであろう。とすると、さきの永禄八年草創説と齟齬することになる。

 永禄年中(1558〜70)創建ということになると、開基龍慶が生まれる(1582)前だし、開山の釈了受律師が没した年(1677)から推しても、生まれる前であろう。
 ということは、永禄年中創建が誤りなのか、開山の釈了受律師・開基の龍慶が誤りなのか、あるいは両方とも誤りなのかも知れない。
 過去帳にある当山一代の釈勝入法師が入滅したのが寛文十三丑年(1673)八月二十日とするならば、17世紀半ばに創建と考えるのが自然であろう。
 将軍家光より御朱印を賜るのが1949年であり、この御朱印の記録は、 いま空乗寺には朱印状写八通(大猷院殿慶安二年八月二十八日、常憲院貞享二年六月十一日、有徳院享保三年七月十一日、惇信院延享四年八月十一日、浚明院宝暦十二年八月十'日、文恭院天明八年九月十一日、慎徳院天保十年九月十一日、温恭院安政二年九月十一日)があるそうで、大猷院殿家光の朱印状(写)の文言は
 相模国高座郡鵠沼村空乗寺領内所之内九石余事任先規寄附之詑全 可収納寺中山林竹木諸役等免除如有来永不可有相違者也
   慶安二年八月二十八日
とあるから、それ以前に空乗寺が存在したことは事実である。
 従って、開山は安土桃山時代ではなく、江戸初期ということは確かである。

浄土真宗高田派への改宗

 空乗寺は草創の当初、何れの宗派に属したかについて、これをたしかめるべき史料がない。しかし1652年(承応)、1661年(寛文)のころには浄土真宗本願寺派であったことは、大檀越であった大橋重政夫妻の法名によっても確かめられる。空乗寺は現在は浄土真宗高田派になっているが、当寺が現在の宗派に属するようになったのは、第十六世呑海の時からである。呑海は1767(明和4)年7月25日当山に歿し、宝乗寺過去帳には                                恪山院釈呑海上人 当山十六世 高田派二改宗ノ住職也
と記録されている。その史料として、「帰依状」一通がある。包紙に「相州鷹座郡鵠沼村、十六世空乗寺呑海江」と記し、本書の文言は次のようである。
                        相州高座郡鵠沼村
                             空乗寺 呑海
今度当山江帰依有之候為御褒美中座席 御免之旨被 仰出者也
                             取次
                    ・         蓮 蔵 院
                                 恵潅(花押)
                元文三戌年十月二十八日  奉行
                              別所掃部
                                 友貞(花押)
                             同
                              国府谷壷岐
                                 盛時(花押)
 更に同日附けをもって、随身之衣体その身一代古用御免状を、取次蓮蔵院恵海、奉行別所掃部友貞、国府谷登岐盛時の名において下附された、こうして、空乗寺は本願寺派から高田派に転じ、現在にいたったが、転派の理由は明らかでない。
空乗寺開山から改宗まで
西暦 和暦  記             事
1565 永禄 8 9 金堀山空乗寺(開山時の宗派不詳)、了受の開山、大橋武部卿龍慶の開基により創建[寺伝]
1582 天正10     大橋重保(龍慶)、河内国志紀郡古室村(現大阪府藤井寺市)に生まれる
1617 元和 3     重保、二代将軍秀忠に召し出され、右筆となり、相模国高座郡の釆地五百石を賜わる
1633 寛永10     大橋重保、右筆を辞し、剃髪して龍慶と号す
1634 寛永11     大橋重政、鵠沼の地を釆地として賜わる
1645 正保 2 2 4 龍慶、江戸で入寂
1649 慶安 2 8 28 地頭大橋重政、采地のうち9石余を空乗寺に寄進し、将軍家光より御朱印を賜る
1673 寛文13 8 20 釈勝入法師、当山一代、入寂[過去帳]
1677 延宝 5 9 3 釈了受律師 当山開基、入寂[過去帳]
1690 元禄 3     第五代了慶、石上明神に御供料として畑三反余を寄附
1767 明和 4 7 25 第十六世呑海、入寂[宝乗寺過去帳]。呑海の時に浄土真宗高田派に改宗[帰依状]
E-Mail:

鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭

 [引用文献]
  • 大橋円明:「空乗寺について」『鵠沼』第37号(1987)
  • 小川泰二:『我がすむ里』(1830)
 
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