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第0303話 鵠沼堰と堀川田

高座郡藤澤町鵠沼耕地整理組合

 『藤沢市史』によると、1931(昭和6)年4月5日、高座郡藤澤町鵠沼耕地整理組合設立とある。
 小字八部・藤原にかけて展開していた《堀川田》と呼ばれる水田(当時の地形図記号では乾田)を、第0300話で紹介した神奈川県による時局匡救農村振興土木事業の《引地川の第3期改修工事》による鵠沼地域を中心とした水田の用水を確保し米の生産性の向上と安定的な生産をはかるために、この水田を所有、耕作していた農民が結成したものである。
 《堀川田》と呼ばれていたが、水田所有者は原と堀川が主体で、水田のない仲東・大東の農民も多く、中には宮ノ前や辻堂地区の農民も含まれていた。
 組合設立の目的は、農業用水取水堰の建設と管理、耕地の整理のための交換分合であった。引地川はこの附近で大きく西側に複雑な流路で曲流し、《地蔵袋》と呼ばれていた。そこを直線的にショートカットを施したため、水害防止には効果を得られたが、《堀川田》は東西に分断され、西側は辻堂地区になったため複雑さを増し、問題解決までに実に55年余りを費やし、1986(昭和61)年11月までかかったのである。これについては後に別項を立てる。

鵠沼堰

 《鵠沼堰》は、引地川最下流部に建造された農業用水取水堰である。位置は現在の《長久保緑橋》の少し下流側にあった。引地川下流の改修工事は1933(昭和 8)年2月1日に着工し、翌年2月に完工しているから、それ以後に建造されたのであろう。初期の堰はコンクリートの柱の間に木の板を落とすという簡単な仕掛けで、堰の上部には幅1m程度のコンクリートの欄干のない橋のようになっていて、徒歩で渡ることができたが、欄干がないために渡るにはかなり勇気がいった。ことに水害(いつの水害か未調査)によって中央部が陥没し、浅いV字型になったため、恐ろしさが増した。.
 取水口は原の道祖神からまっすぐ行った突き当たり、本鵠沼4-10地先の《長久保緑橋》附近にあり、例年5月1〜4日の田植え時期になると板を落としてせき止め、《堀っこ》と呼ばれる用水路で《堀川田》に農業用水を導いた。苗代は《堀っこ》の両側、堰から200mほどのところに作られ、共同で利用したという。
 鉄製の巻き上げ式水門が建設されたのは戦後1954(昭和29)年以降のことと思われるが、正確な時期は未調査である。例年9月中旬には水門を上げて水を落とした。堰開けの時には多くの魚が弱って浮き上がり、四つ手網や素手でも容易に捕らえられたので、多くの人々が集まり、良いレクリエーションになった。
 堰の西側には《辻堂山》と呼ばれるクロマツの生えた小高い砂丘があって、「松葉掻き」の場になっていた。戦時中にはノウサギを捕まえることができたという。.私が今でも疑問に思っているのは、《鵠沼堰》の用水は《地蔵袋》の水田にも導かれていたのかという点である。《辻堂山》の斜面はいきなり引地川に落ちていて、コンクリート護岸もなかったように記憶する。堰の上流西側には取水口を設けていなかったのではないか。
 葉山峻氏の記憶によれば、「砂山のところからはきれいな清水が流れていました。今の作橋のところ高島屋かなにかの寮のところの裏を通り、今の県営住宅のところ作橋の下のところに水は落ちていました。本当にきれいな水でそこにはいろんな魚がいっぱいいました、しじみもいっぱいいました。島根のしじみほど大きくはないの ですが、たくさん獲れました。」とあるから、《地蔵袋》の水田は《辻堂山》の湧水を利用できたのかも知れない。
 《鵠沼堰》がいつ解体されたのかは正確な記録を見つけていない。山上敏夫氏の撮影した1958(昭和33)年正月の写真には解体工事後間もない様子が写っているから、1957(昭和32)年中に解体されたと思われる。

堀川田

 《堀川田》は《堀川田20町歩》という呼び方もあったようで、鵠沼地区では最もまとまった水田地帯であった。鵠沼で水田地帯というと、引地川流域では小字内田の《上ノ耕地》、苅田から原にかけての《下ノ沢(したのさわ)》そして《堀川田20町歩》があり、片瀬川流域では鵠沼東から石上東部の《奥田》、そして《川袋》があった。川袋は高座・鎌倉郡境にまたがっていて、片瀬の農家の水田が多かったようだ。鵠沼の農家はむしろ現在の藤沢市民病院周辺や下水処理施設付近の大鋸飛び地まで出掛けていって稲作をしていた。

堀川という地名について

 鵠沼で《堀川》という地名には大きく3通りの用法があるので注意を要する。
  • 集落名第0168話で紹介した《本村》最南部の集落で、皇大神宮例祭の九番山車(仁徳天皇)を受け持つ。かつては《本村》の集落のみであったが、現在の町内会《堀川郷友会》は《納屋(なんや)》集落も含む鵠沼地区最大の町内会を形成する。
  • 河川名:引地川本流下流部の江戸時代における地方名。第0079話で紹介した《堀川改修記念碑》にある。
  • 河川名:《堀川田》の排水路で、《古川》、《鯉取川》とも呼ばれた。第0198話で紹介した《肥上道》の北側に並行していた区間は1964(昭和39)年に暗渠となり、現在は大型車がすれ違えるほどの道路になっている。この流路は江戸時代までは引地川の本流だった可能性が高い。《肥上道》から南流し、国道134号の《渚橋》を潜って西流し、《片帆橋》を経て《聶耳記念広場》の南側を流れ、《鵠沼橋》の下流で引地川本流に注ぐ。
E-Mail:

鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭

[参考文献]
  • 藤沢市:『藤沢市史年表』
  • 葉山峻:講演記録「少年の頃の鵠沼」『鵠沼』第81号(2000)
  • 座談会「鵠沼むかし語り」U―― 半農半漁村のころの鵠沼――:『鵠沼』第84号(2002)
  • 記念碑(鵠沼耕地整理)
  • 引地川と鵠沼堰
 
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