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手掘りのプール1930(昭和5)年11月27日、縣立湘南中學に水泳プールが完成した。このプールは御大典記念事業として企画され、職員・生徒の拠金と勤労奉仕によってできあがったものである。その記録は、湘南高校卒業生の野口 元(はじめ)氏(1939-1993、毎日新聞記者。松岡静雄の外孫)によってまとめられ、『わが母校、わが友 T』(毎日新聞横浜支局篇 1976)に掲載された。 同書の要約は、吉田興一氏(鵠沼公民館第9代館長、鵠沼を語る会会員)が「湘南中学(旧制)から高校ヘ」と題して『鵠沼』第70号(1994)に掲載されたので、プール工事の部分を引用する。 夏の暑い日ざしのなか、校内の北西すみにある砂山で、エッチラ、オッチラ穴堀りが始まった。全校の職員、生徒が総出である。昭和五年七月の夏休み直前のこと。学校プール建設作業だ。そのころ、学校でプールを持っているのは横浜二中(現翠嵐高校)くらいのもの。湘南は、片瀬海岸まで出かけて水泳練習をした。そこで、昭和三年の御大典記念の事業として、プール建設がとりあげられた。不況時代。おいそれと着工するわけににはいかず、職員、生徒七百人が毎月十銭ずつきょ金し、十年間で八千四百円を集める計画を立てた。そして篤志家の寄付などもあって、この年には着工の見通しが生まれた。しかし、校内の力で作業を進めるというきぴしい条件がついた。 全校作業は七月二十一日から五日間、その後の夏休みは、有志による作業ということだったが、ほとんどの生徒が学校にやってきた。創立十周年誌には「5日間の全校作業の参加生徒は延べ三千四十九人。救護班の調査によれば、手のマメ百九十六、切傷二十三、擦傷二十五、気分悪かりし者わずか四」という記録がある。八月いっぱいで コンクリート作業終了、九月一日給水試験。このあとタイル張り、上塗りは本職に引き継がれ、十一月二十七日に完了した。この作業に加わった卒業生たちは、だれしも モッコかつぎやセメント張りのことを楽しげに話す。「胸にはいまだそのときの名誉の負傷が残っていますよ。足場を組んだ針金にひっかけちゃってね」と宮田工業取締役、宮田輝彦(昭9) 「くわしいことは忘れちゃったが、作業のあとにスイカがよく出たことは覚えている。スイカにひかれてモッコかつぎをしたようなものだな」とい うのは法大教授松岡磐木(昭10)。教職員もなつかしむ。美術教師だった塚本茂は「暑くてたまらねえから、おれなんかフンドシひとつになっちゃったね。インキンもできたよ。一つの目的に先生と生徒が一緒になって働く気分はそう快だった」といっていた。それから生まれた水泳部は「元日に江ノ島で泳ぎ、当時の名物にもなった」と いう。 農業用水にも利用なお、上記の記録にはないが、古老の記憶によると、小字内田にあった《上の耕地》の水田は、田植え時の水不足にしばしば悩まされていた。この耕地を耕作していた上村(かむら)の農民が、田植え時に農業用水としてプールの水を利用することを条件にプール建設の勤労奉仕に動員されたという。『鵠沼』第84号(2002)に掲載された座談会「鵠沼むかし語り」U 半農半漁村のころの鵠沼に出てくる次の箇所がその辺を裏付けるのであろう。 関根ヒ (空中写真を指して)これが今の湘南高校です。それで、これが上村で、一中がここですから、一中の周りの、この黒いところが上の耕地の田圃があったところです。ここの水源は、この山の絞り水とね、いざ水が必要だというときには、湘南中学のプールを1年に2回や3回は開けてくれる。 ―― 湘南中学ができる前はどう。 関根ヒ さあ、それは知りません(笑声)。 宮崎 湘南ができる前は、プールがなかったですから、上村っていうのは非常に水争いが厳しかったです。 | ||||||
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