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鵠沼の『ホワイトハウス』旧長谷川・斉藤邸・外務省精励会・出光興産寮1928(昭和3)年12月、第0258話で紹介した《高瀬通り》に面する藤沢町鵠沼字川袋2431番地(鵠沼桜が岡1-17-41)に清水組(現在の清水建設)の手によって白亜の洋館、長谷川敬三(鐵道省技監)邸が完成した。実はここは我が家から直線距離で100mばかりという「ご近所」なのだが、間に髙松山と呼ぶ小高い砂丘があるため、ご近所付き合いはなかった。 1928年といえば、小田急開通の前年、この辺りは芥川龍之介が『歯車』の冒頭に描くように「自動車の走る道の両がはは大抵松ばかり茂つてゐた」といった光景で、せいぜい桃畑やサツマイモ畑が見られるばかりで、人家はまだほとんど建っていなかったに違いない。 当時の最高水準をいく純洋式・敷地面積は3,655.04㎡(1,105余坪)で、高瀬通りに面した西隅の門から緩やかなスロープを80mほど進むと正面玄関に至る。建物の床面積は1階が199.83㎡(60.45坪)、2階は154.47㎡(46.73坪)、それに物置とポンプ小屋が付属していた。 建て主の長谷川敬三氏から1938(昭和13)年に斉藤音次氏が購入した。戦後は鵠沼の洋館の多くが進駐軍に接収されたが、斉藤音次氏が外務官僚であったため、(財)外務省精励会に売却して接収を免れたという。 外務省所管だった時代、ここを訪れる外務省関係者が「鵠沼のホワイトハウス」と名付けたという。(財)外務省精励会がこの建物をどのように利用したかは明確でないが、一時外国人が住んでいたという。 さらに、1955(昭和30)年に出光興産の手に渡る。社員の保養所・研修所「出光寮」として使われ、この間、いくつかの映画ロケ地に用いられた。 出光興産は1999(平成11)年すべての建物を取り壊し、更地にして不動産業者に売却し、この建物は70年余の生命を閉じた。 この建物の詳細については、解体の翌年、斉藤音次氏のご子息、斉藤徹氏が調査をされ、平面図や新築当時の写真、外務省時代から出光寮時代を管理人として務められたご夫婦の撮影された解体直前のカラー写真を含めて《鵠沼を語る会》の会誌『鵠沼』の第81号に寄稿されている。 この項を起こすにあたってあれこれ調べているうちに、YouTubeで在りし日のこの建物の内外を見ることができるのを発見した。外観は夜景なので明確ではない。YouTubeはクレームがつくと消去されるので、早いうちにご覧戴きたい。 ついでに、ここに映っている赤木圭一郎と笹森礼子は、いずれも少年少女時代を鵠沼に暮らし、湘南学園幼稚園の同窓生である。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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