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第0278話 花沢町

花沢通りと花沢町

 藤澤停車場には鉄道開通(1887(明治20)年)当時は北口しかなく、江之島電氣鐵道開通(1902(明治35)年)によって南口ができたが、南側は人家はまばらだったらしい。第0256話で紹介した《私立湘南実科女学校》が本校舎に移転(1923(大正12)年5月)した当時、校舎の裏(西)側には松の生えた砂丘があった。
 大東の古老、故関根佐一郎氏の記憶では、「聖天松原」といい、「これは藤沢と鵠沼の丁度境に当たる所で今の藤沢駅のところ,これは聞いた話だが最初、鉄道省は藤沢駅を陣屋小路に作る予定であったが、煙を吐くものは嫌いということで住民の反対にあい聖天松原になった。.ここなら人がいないから反対は起きなかった。このため大船駅と藤沢駅の間に大きなカーブが生じることになった。
 藤沢駅の南、花沢町ではウサギが飛び跳ねていた。花沢町といえば、鵠中の砂丘の続きがあって、そこは関根本家の山だった。大船駅を作るときに藤沢駅から引込み線を敷いてトロッコで砂を運んだ。大船駅の所は川が流れており、地盤がグズグズしていたので基礎が上手くできない。砂を入れると地盤がしまるので本家の山の砂を全部持って行った。その時、鎌倉時代、多分、新田義貞の頃のカブトが砂の中から出てきた。このカブトは関根本家に祀ってある。」という。
 こういう状態の藤澤停車場南側に宅地開発が行われたのは、震災復興期のことらしい。
 藤沢市史年表には、1927(昭和 2)年12月4日に「鵠沼の花沢通り開通。花沢町、町内会を組織」とある。
 また、花沢町町内会が1939(昭和14)年に建てた《下水敷設記念碑》によれば、「花澤町ハ大正十二年關東大震災直後ヨリ漸次開發セラレ昭和二年始メテ町内會を組織シ」とある。
 この《花沢通り》がどの道路を指すのか明確な調査は行っていないが、おそらく花沢町の中央を南北に貫くやや広い道のことだろう。
E-Mail:

鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭

[参考文献]
  • 下水敷設記念碑(1939)
  • 狽倉 健:「橘通りの今昔」『鵠沼』第85号(2002)
  • 関根佐一郎:「昔の鵠沼の暮らし」『鵠沼』第90号(2005)
 
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