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院鐵東海道本線東海道線は当時御殿場線を回っており、この区間の被害は複雑かつ甚大であった。馬入川(相模川)鉄橋は全潰し、六郷側(多摩川)鉄橋も大きなダメージを受けた。県内最大の鉄道事故は熱海線根府川付近で、トンネルを出た列車が崩落する鉄橋もろとも海中に転落したことである。この事故による死傷者は125人という。鵠沼地区内では、藤沢~辻堂を走っていた下り貨物403列車が、激震により9600形機関車(29675号機)と客車1両貨車13両が転覆、貨車5両が脱線した(左写真)。機関士が火傷により死亡。 藤沢駅も全潰した(右写真)が、幸い圧死者などは出なかった(平塚駅は圧死4人)。 東京~藤沢間の復旧は最優先で取り組まれ、早くも9月10日には開通し、横須賀線もほぼ同時に復旧している。東海道線全線の復旧は10月28までかかった。 東京電燈江之島線江之島電氣鐵道は橫濱電氣江之島電氣鐵道部から1921年5月1日に橫濱電氣が東京電燈に合併したため東京電燈江之島線となっていた。関東大震災により、東京電燈江之島線は川口村大源太にあった発電所の崩壊や土砂流失による軌道の埋没をはじめ、随所で甚大な被害を受けている。その被害総額は、年間運輸収入の26%に及んだというが、復旧させるための投資力と、失った発電所に代わる電力供給源の確保等を考え合わせると、震災の発生が東京電燈時代であったことは不幸中の幸いといえよう。開通直後に乗車した私の祖母の記憶では、現在の七里ガ浜高校から鎌倉プリンスホテル付近では線路の北側の丘陵斜面に生えていたクロマツの枝にホンダワラなどの海藻がおびただしくぶら下がっているのを車窓から見上げたそうである。7mといわれる津波が江ノ電の線路を越えたのであろう。. 川口村における救援物資の配給は、江ノ電片瀬(現江ノ島)駅構内でも行われ、被災者が長い列をつくったという。 懸命の復旧作業は夜を徹して行われ、9月25日にはほぼ全線の運転が再開されたというから驚異的なスピードといえよう。この震災で開業以来活躍してきた栄えある1号車を焼失している。なお、1号車の焼失にあたって、新造車による補充はされなかったたが、同じ東京電燈経営の渋川線から車両を転用し、車両不足を補っている。 | ||||||
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