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大震災後の境川関東大震災は藤沢町全体にも多大な損害を与えたが、旧宿場町の名残をとどめていた境川筋では、宿の防備のための「桝形」(道路を鍵の手=クランク=にした部分)が避難を困難にした。旧東海道は遊行寺坂を下ると、「桝形」を通って遊行寺参道の「大鋸橋」(現在は「遊行寺橋」と呼ばれる朱塗りの橋)で境川を渡った。関東大震災の避難経路の反省から、現在の「藤沢橋」が架橋されたのである。現在の住居表示では鵠沼東から鵠沼石上にかけての国道467号沿いの一帯は、奥田という泥深い田で、古い地図を見るとそこを高座、鎌倉郡境線が不自然に屈曲している。これは境川の旧流路を示すと思われるが、いつの時代のものかは判明していない。奥田の名は「奥田公園」にかろうじて残っている。 この水田地帯の用水は、大鋸に1924年に建造された「奥田堰」から引かれてきた。かつては「大鋸堰」というのがあったようだが、建設期、廃棄期は判然としない。 「奥田堰」は1923年に木造の堰として建造され、1954年にコンクリート、鉄製の堰になったが高度経済成長期に下流の水田地帯は急速に都市化して各種文化施設や大型店舗が林立するようになった。 1983年、奥田堰は取り壊されて、その位置に鉄製の人道橋「堰跡橋」(えんせきばしと読む)が架橋されて、脇にかなり巨大な記念碑が建造された。 「奥田堰」記念碑碑文昔鎌倉幕府が宋の国に渡る為当船久保の地にて船を建造した。約七百余年前である。その航海の安全を祈願したのが船玉神社弟橘姫命である。いつの日かより目前の流水を利用して水田を開き堰を築き大鋸堰と稱した明治に至り藩制が廃止され明治六年五月大小区制が施行されて第十六区一番組(大鋸西富柄沢)となる、同十三年六月区制廃止、鎌倉郡大富町字船久保となった。同四十年五月二十九日、大富町(大鋸西富)大坂町(大久保坂戸、善行立石)と合併し藤沢町となる。同四十一年四月一日明治村鵠沼村が合併され同四十一年十月一日町制が施行される。現在の市制記念日は町制施行が基となっている。同四十二年十一月合併を期に藤沢町外、二箇村(六会村大正村)連合耕地整理組合が発足し、水田、河川の整理が進み、大正十三年木造堰が完成されて奥田堰と名命(ママ)され左岸に大鋸河原(大鋸一・二町)鶴巻(弥勒寺)川名(川名一丁目)右岸には大道東(寿町朝日町)東横須賀奥田(朝日町藤沢鵠沼東)の各耕地に農業用水として利用された。境川沿岸の住民には色々の恵みを与え、時には禍を持たらし(ママ)日々生活を共にして来た。 昭和二十年、敗戦により食糧が不足し同二十九年食糧増産為県母体により河川改修が行われ愛知用水を見本としてコンクリート、鉄製の永久堰に生れ改る(ママ)も時代の変化に依り各耕地の区画整理が進み宅地化され同三十五年頃には用水としての使命を終えた。 耕地は現在の市街地となった。今般県市の深い理解により奥田堰は堰跡橋に変る。 合資会社谷津組、坪井工業株式会社の施工により附近住民の日々の生活の為、堰より橋へ、永い間親しんだ境川奥田堰を偲び橋の完成を記念し赤門住職吉川晴彦の句に藤沢市長葉山峻の書により、ここに碑を建立するもの也 昭和五十八年五月十四日大安吉日 青木謙夫之記 「齋禍許恵境川」吉川晴彦 ※蛇足だが、吉川晴彦は「赤門」の別名で知られる眞梹(遊行寺塔頭)の先代住職で、その父は今井達夫の親友だったことは第0190話で紹介した。 | ||||||
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