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第0241話 師正王遭難

 この話題は既に第0232話および第239話で紹介したところだが、ここでその話題に絞ってまとめておこう。

 鵠沼公民館前の道を海に向かって進むと、左手に介護付有料老人ホーム《オーシャンプロムナード湘南》の門がある。門を入ってすぐ右手に「東久邇宮稔彦王 第二王子師正王碑」と刻んだ石碑がひっそりと立っている。
 碑については別項を立てて後述する予定だが、おそらく鵠沼で最も知られていない石碑だろう。

 1923年の夏、鵠沼は東久邇宮様ご一家が吉村別荘に長期滞在される話題で持ちきりだったに違いない。
 なにしろ、江ノ電鵠沼停留所から吉村別荘に至る道路の両側の地主は1尺ずつの土地を削って道路を2尺拡幅したというから半端ではない。
 『日記』によれば、岸田劉生は宮様に献上する絵を制作している。

東久邇宮稔彦王 第二王子師正王

 東久邇宮稔彦王(ひがしくにのみや なるひこおう 1887-1990)は、久邇宮朝彦親王(くにのみや あさひこしんのう、1824-1891)の九男として生まれ、後に太平洋戦争時には陸軍大将、戦後間もなく短期間だが皇族として唯一第43代内閣総理大臣となり、戦後処理を行ったことで知られる。
 1923年当時には東久邇宮自身はフランス陸軍大学に留学中で、夫人の聡子(としこ、1896-1978)内親王(明治天皇の第九皇女)と盛厚王(もりひろおう、1917-1969)、師正王(もろまさおう、1918-1923)、彰常王(あきつねおう、1920 -2006)の三人の王子が女官らとともに吉村鐵之助別荘に夏休みの間滞在されたのである。
 1923年9月1日、相模湾沖を震源とするマグニチュード7.9の大正関東地震で、鵠沼など相模湾岸一帯は震度7の烈震に襲われ、ほとんどの家屋が倒壊した。豪壮さを誇った吉村別荘も例外ではなかった。
 この倒壊により、東久邇宮稔彦王の第二王子師正王と、御用取扱、きよというお次の女官が遭難死している。
 その模様を「鵠沼を語る会」の故塩澤会長の要請により、女官の白土しな氏が書簡を寄せられ、鵠沼を語る会:「震災誌(特集)」『鵠沼』第50号(1989)に掲載されているので引用しよう。

女官白土しな氏の記憶

  妃殿下が御子様を御つれ遊ばし鵠沼吉村邸に御避暑になり毎日海岸にて水泳を遊ばし楽しい日々で御座いました。前には大きな池もあり広い広い御家でした。九月一日午前十一時すぎ突然地震が起こりゆらゆらりと初め段々と強くゆれ出ました地震の大きらいな妃殿下広い二階をあちこちと歩かれ梯子段の方に御出でになりますから梯子段は駄目ですよと申ました処帰って御出になり食堂に御はいり遊ばしたかと思ふとたんに家が全部こわれてしまいました。宮様は其下敷となり片足が屋根をつきやぶりひざから下が外へ出て居りました。志ばらくすると役所の人が宮様宮様何処に御出て?、と大声て呼びますから宮様はここですよと私も大声て申ました処アゝ足が出て居ると急ぎ其足を引っばりました処宮様が痛いよと申され中止致し家根をかかえてもらい其間から、はい出しました二階だから、どうして降りやうと思ひました。ペチヤンコになり地面続きでした、宮様の足の血を洗って上やうと思ひ井戸がありましたから水をと思ひました処水はなく土がもり上って居るのに驚き其まゝ行かうと思ひました処津波が来るとの事に又々驚き、たをれた家根の上を通り安全な処迄にげのびました何と申される内でしたか忘れましたが後から後から皆々ここに集まりました。師正様は外に御出てにて家の下敷になって亡くなられ御用取扱は梯子段の処で亡くなられました。妃殿下の所に御出でになる御つもりでしたでせうと御気の毒に存じました、もう一人御次の人で(きよ)と云うのですが押入の中に入りつぶされて亡くなりました。此方々も皆、妃殿下が御出になりましたお庭に運び込まれ一夜を明かしました。翌日は船に乗り東京の港へ上陸自動車で市兵衛町の焼残りの家に御帰へりになり、それから師正様の葬儀などすまされた後伊香保の御用邸へ御出でになりました以上の様な事しかおぼへて居りません。
     昭和五十六年六月十二日
            群馬県榛名町中室田恵泉園
                         白土 しな

 「翌日は船に乗り」というのは、鵠沼在住の退役海軍大佐松岡静雄が手配した駆逐艦と思われる。
E-Mail:

鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭

[参考文献]
  • 鵠沼を語る会:「震災誌(特集)」『鵠沼』第50号(1989)
 
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