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第0240話 岸田一家と震災

 第0193話で紹介したように、画家岸田劉生は1917年以来現鵠沼松が岡4-7-10にあった松本別荘に住んでいたが、大正関東地震で母屋が全壊し、津波を恐れて石上まで避難した。
 劉生は『日記』にその時の模様を詳細に記録しており、これは鵠沼に於ける関東大震災の記録としては他に得難い貴重なものである。しかし、9月1日から鵠沼を去る9月16日までのすべてを引用すると、かなり膨大なものになる。
 幸い、長女の岸田麗子(左様、あの「麗子像」のモデルだ)が後年著した『父・岸田劉生』に、自身の震災の記憶に続いて、父の『日記』の要点を抄録しているので、今回はそれを引用しよう。

岸田麗子:『父 岸田劉生』より

 九月一日のおひるちょっと前、私は夏休みの宿題の勉強をおわって松本さん(松本別荘大家)のじいやの所の小さな男の子の所へでも遊びに行こうと思って、家を出て前の道を五六歩も歩いたろうか。
 鎌倉の師範の附属小学校はこの日はまだ休みだったのだ。
 するといきなり足もとが揺れた。それは大した揺れではなかったのだが、私は恐くなり急いで家の中へ逃げ込もうと思い、引き返しかけた。その瞬間大地は大波のように揺れ、四辺は津波が押し寄せるような何ともいえない恐ろしいゴーッという響きにつつまれた。
 そして私は家の中からまろび出て来た小林さんにさっと抱き上げられた。しかし抱き上げた時小林さんはそのまま大地に叩きつけられていた。そして小林さんと私は上になり下になり、ゴロゴロゴロゴロ転がっていた。
 其処は二本の門柱の丁度間の所だったので、私は転がされながら、この柱が倒れて来たらどうしよぅと思った。そして上の方をみると、父が白地の浴衣のまま、松本別荘の入口の大門の方へ向って転びもせず、ヨチヨチ、ヨチヨチ、と歩いて行く後ろ姿が見えた。足をふんばりかげんにして、大きく揺れる大地の上を、ただ一人向うむきで歩いていた父の姿を忘れることはできない。それは異様な、口ではちよっといい表わすことのできない強い印象であった。
 どれだけかたって大地はやっと静まった。母は家の中から逃げることができず、あっちこっちヘぶっつけられやっと壁に手を掛ければその壁がくずれ落ちただ無我夢中だった。幸い家はその時すぐには潰れなかったので母は無事だったのだ。
 父と母とは茶の間で覚えて間のない花合せをして遊んでいた。するといきなり父が、
 「あッ、こりゃあいけないッ」
というが早いか立ち上がり、さっと外に飛び出してしまった。母は何のことかわからず、あっけにとられて見送る瞬間グラグラッときたのだった。
 照子叔母はその時玄関の所で針仕事をしていた。叔母は何が何やらわからないうちに、いきなり外に放り出されそのままゴロゴロ転がされて松の根元にぷつけられたのだった。
 照子叔母は袖でしっかり顔をおさえていた手を離し、母の方へ顔を向けて、ふるえ声で、
 「お姉さま、こらぁ」
 といった。叔母の左の目の辺りほ血ですっかり汚れていた。とっさに母は”あッ、目をやられたな”と思った。そしてすぐ叔母の目をつぶらせて両方の目を袖で掩って叔母におさえさせ、叔母の躰をしっかり抱きかかえた。母は一方の目を怪我した時には助かった方の目も一緒に大切にしないと、両方とも駄目になるという話をきいていたのだ。
 父達がすぐ心配したのは津波だった。無気味な音はまだきこえていた。父はウロウロするばかりだった。松本さんの山へ逃ザようといって、麗子おいで、と父は呼ぷ。母はあんな低い所じゃだめですよ、といっている。実際それは山などというものではなく、ただ小高い所に松がはえているというにすぎないものなのだ。そして結局父が風景の中でよく措く藤沢の方の山をめざして逃げることになった。
 松本別荘の太い門柱に、荷車のつながれた黒い牛が、足を半分砂の中にめり込ませたままだまって立っていた。牛の後ろには濃い秋の空が一点の雲もなく広がっていた。黒い大きな牛ほ不安そうな目を私達にむけて、物問いたげにあわれにじっと動かない。動物のそんな姿はいかにも天地の異変を感じさせ、人間の心を一層不安にした。
 私達が歩き出し、すぐうちのすじ向うの沢田さんのお宅の前に来た時、門の外に沢田さんの義妹が出て来られて、泣きながら、
 「大変なことになりました、大変なことになりました」
 といい、私の手を取って、
「麗子ちゃん、どうしましょう」
 といわれるのだった。この時には運悪く沢田氏ほ前日から新婚旅行に出て、義妹一人だったのだ。
 そこへ中屋(宿屋)で丁度裸で電話をかけていた所をやられたといって、裸のままの横堀さんもかけつけて来て、照子叔母は母と横堀さんにかかえられるようにして、それから皆でとに角山を目ざして歩き出したのだった。
 途中の森林にはもう多数の人達が避難して来ていて、どこかのお婆さんが、もう世の終りですといって、小声で一心にお題目をとなえていた。
 私達は其処を通りすぎ、遠くに見える太い白い道へ出ようと、その前に横たわる田んぼの中にはいって行った。私は小林さんの背におわれた。田舎育ちできたえられた若者の小林さんは、着物を高く端折って股まで泥田につかりながら、それでもひるまず一歩一歩どんどん進んで行く。私は背中で「お父さまは? お母さまは?」というが、小林さんは大丈夫ですよ、すぐいらっしゃいますよ、というばかりで少しも足を止めない。私は延び上がって振り返ってみた。するとはるか遠くに父が、一足ふみ出しては泥田に足をとられ、一足ふみ込んではズプズプとどこまでももぐって行く片足に平衡を失って倒れかけている。そしてそのもっと後ろに母と、叔母を背おった横堀さんがいた。――
 これから先のことを父の日記から少し抜萃してみる。


  九月一日 雨後晴
「……田の中に腹迄つかつて逃れる。地面がゆれ.われてあぶない。電線がひくゝなつてゐて電気が通つてゐるかもしれない。実に不安である。やつとのがれて、藤沢の遊行寺か武相へ行かうとしたら、途中、石上の御百姓家へ呼びこまれる。非常に親切な家で、実に助かつた。鈴木といふ米屋さんで、今の世に珍らしい人々の家族だ。この家の事は永くく忘れまい。再生の恩人である。照子をねかしひやしてやる。……とも角も地震が不安なので、地面に、板を敷きござを敷き夜は蚊帳をつつてくれる。横浜ほ全滅東京も駄目等の悲報来る。西郷さんたち、原さんたち三渓園の無事を祈る。照子の眼心配也。安全を祈るのみ。あゝ今日は実に何といふ日であつたらうか、只々神に罪を謝し、御守りを祈るのみである。」

  九月二日 晴
「……午后より、朝鮮人が、暴動をしてゐて改めて来るといふ、恐怖に恐怖也。米屋と思はれてはといふので米俵を裏へ運ぶのを手つだふ。……鮮人の不安ますく強く、金をうづめやうとか食品をかくさうとか、いざといふ時どこにかくれ様とか、又小林等はふせがねばならぬ故とてモリや刀などの武器を出したり夜に入つてもますます不安也。あゝ神よ守り給へ。照子の眼の助かつてゐた事は万一の幸と思つてゐた事で、実に実に感謝の外ない。……」

  九月四日 晴
「……二宮さん(鵠沼の人。沢田氏の友人で美術愛好家)へ蓁と行く。二宮さんでは温室と物置がつぶれなかつたのへ丸太と戸板で床をして畳を敷いてすんでゐられたが、結局、物置の方をかたづけて床をつくり畳をしいて拝借する事になる。石上にさうゐるのは気の毒なのと鵠沼にゐれば地震つなみがなければかへつて気丈夫なのとで也。神よ守り給へ。……二宮さんの御父様と小林と余とで物置に入つて、地震のために壁など落ちてゐるものをかたづける。シャベルやくわで、働く。それからこわれた主家の中へ入りこれも壁などの落ちてゐる畳を上げて運ぶ。仕事中、照子、麗子が石上の土地のものを収容しなくてはならぬといふので、ことわられたとて来る。尤の事也。石上の人たちには全く、深く深く感謝し、この恩は忘れたくないものと思ふ。永く永く。……」

  九月七日 晴.強雨あり
「……二宮さんの御尊父、夜東京より帰らる。麻布(母の里のある所)よりの手紙持つて来てくれる。皆丈夫怪我もなき由、大姉さんは其日店をやすんだ由、家は瓦一つ落ちない由聞いて大安心。深く深く神の御守りを感謝し奉る。銀座の家、兄弟たち、友だち、それ等の家族皆の安全と幸福を祈る。夕方鵠沼の方へ歩いてみた。兵隊が来てゐて米みそしよう油等売つてゐた。……」

  九月八日 晴
「……二宮さんの御老人ほかまくらに行かれたが、長与一家は旅行で無事、園池、木下も無事、園池は家もつぷれぬ由、安心し感謝す。どうぞ猶愛する人々の上に無事と平安と幸福と幸運のめぐみを祈るものだ。神よ守り給へ。……」

  九月九日 好晴
「……仮居に帰つてねころんで、『女性』誌上の荷風の耳無草などみる。この人も古美術を愛するらし、今の境地にてこの文をみて、かわける時水に会ふ様な心地幾分したり。……」

  九月十日 雨
「……沢田さんのところへ来た人が東京新聞を持つて帰られたが、其の中に都新聞あり、さすがに芝居道の事をかいてあつて、中車、秀調其他いゝ役者皆助かつてゐる。羽左も松助も無事、これは随分うれしかつた。それにしても兄弟たち、友人の無事を切に祈るものだ。……」

  九月十一日 晴
「七時前おきる。昨夜はよくねた。朝もうとうとねた。横浜へ御見舞に行くと云つて出て、日本橋の原田を訪ひ、木村、清宮の安否をたづねる夢などみた。皆の安全と幸福とを切に祈る。……午前、所ざいないのでぶらぶら鵠沼中を歩いて帰つて来たら、三四日前中屋の人に托して木村へやつた手紙の返事が木村から来てゐたので非常に喜ぶ。……手紙の模様では、清宮一家、原田一家、木村一家、尾高一家皆無事の由、原田は家は皆焼けた由、しかし他の人は家も変りなかつた由、何にしてもよかつた。深く深く神に感謝する。猶銀座の弟や嫂、その子たち、兄や安良等の無事と幸福を祈る。神よ守り給へ。木村たちは皆余の安否を案じてゐて、食料の安定が出来たら隊を造つて鵠沼へ来やうとしてゐた由、友情を感じ涙ぐみ感謝す。……」

  九月十三日 小晴雨
「今日は十三日にて心配してゐたが神の加護にて、誠によき十三日であつた。それほ名古屋から片野元彦がたづねて来てくれ、銀座から永井幾次郎君(吟香在世時代からずつといる楽善堂の番頭さん)が来てくれて、片野君の話で、鈴木鎌造君が大へん心配して、余が無事なら早速名古屋へつれて来てくれ、自分が夏中借りておいた新舞子の家へ入つて貰ふからとの事、いろいろ相談の結果蓁が夕方本村の藤本理髪店へ行き、荷物をあづかつて貰ふ事、手つだひをしてもらふ事など頼んで来たりした。いよいよ近日鵠沼を引きあげて名古屋へ一時住む事になるらしい。おゝ神よ、この事をどうぞ御守り下さい。……今日より震災見舞の手紙来る。郵便も少しづゝかいふくして行く。銀座ではどうしたのだらう、名古屋からさへ来られるのにと云つてゐるところへ今度は永井幾次郎君が来た。安良も勝利も皆も無事の由、あゝ神よ、深く深く感謝いたします。片野のすゝめで名古屋行きと略きまり、それから画室の荷物をかたづけはじめる。‥…」

  九月十四日 曇少雨あり
「……昨夕蓁がたのんでおいた本村の床屋のおぢさんと手つだいの男が来てくれ、台処と座敷の屋根をこわしていろいろのものを出す。手つだつてゐたら「オイ」といふ声がする。聞きなれた声だと思つてみたら長与が一人でやつて来たのだつた。うれしくて涙ぐんだ。長与と庭の戸の上や何かの上に腰かけて話す。又郎さんは家が焼け、平山さんは無事の由、鎌倉から片瀬の長与家へ泊り、今朝来た由、長与も手つだつてくれていろいろのものを運ぷ。台所から余の大きな堂八祥瑞が出たり紅茶が出たりする。御雛様の道具も出る。長与と皆と一所に昼食。長与が鎌倉にすみ余が鵠沼に住み相訪ふ事もう五年になる。よくめしを一緒にたべたが余等一家はこれから関西に行く、当分これで一緒にめしがくへない、へんな事になつたと長与と話し、感慨無量?也。長与にかんづめや何か御みやげにもらふ。一時五十分の汽車で東京へ帰るといふので送る。二宮さんの庭のところで別れがおしまれへんに涙ぐむ。それでついつい話しながら藤ヶ谷の先迄裸で送つてしまつた。別れる時は悲しかつた。又二人とも皆も丈夫で喜びの中に相会へる事を深くく神に御祈りするものだ。……」


 九月十六日なつかしい鵠沼の人々に送られて鵠沼をあとにし、横須賀に向った。横須賀には所宏氏という父の弟子の人がいて、永井幾次郎さんが東京へ帰る前に横須賀へ行き、所さんと連絡をとっておいてくれたのだ。所さんは、一万二千噸程の関東丸(日露戦争の時ロシアからとった船)という特務艦が、横須賀の海軍将校を送る最後の船で十七日出航するというので、それに乗せて貰えるように話をきめておいてくれたのだ。
 ところが小海というその浜へ来てみると、先に来ているはずの荷物が来ていない。時間が来てハシケは出てしまった。所さんがやっと場所をまちがえていた手伝いの人と荷車をつれて来てくれ、船の出る所の人も心配してくれて結局朝日丸の艦長の御世話で水雷艇が出る事になり、(この方には後に父の絵をお礼に差し上げている)もう錨を上げて動き出していた関東丸も待っていてくれて、無事に九月十八日の夕方名古屋の片野さんの所に一同無事に着くことができた。
E-Mail:

鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭

[参考文献]
  • 岸田麗子:『父 岸田劉生』(1962)
 
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