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第0224話 柳小路住宅地

柳小路停車場

 この位置は、江之島電氣鐵道開設当時には、脇を曲流した片瀬川が並行して流れていた。
 1917(大正6)年9月30日の出水でショートカットが行われ、現在の流路が確定した。しかし、大水の度に旧流路を突進した水は、江ノ電の土手を突き崩したりしている。
 江戸時代にはさらに西方まで片瀬川は深く曲流していたらしく、高座・鎌倉郡境線はここで不自然なほど屈曲している。これが片瀬川の旧流路を示すのかどうかは、それを示す絵図などがあれば明確になるが、残念ながら見たことがない。
 この屈曲部の鎌倉郡側の小字名が桜小路である。現在は公園の名にかろうじて残っている。この桜小路になぞらえて柳小路の停車場名がつけられたのだろう。
 と、ここまでは第0208話で紹介した内容である。
 この地域の開発は比較的新しいため、大した調査はなされてこなかった。『鵠沼』第56号に「わがまちミニ紹介シリーズ 柳小路」というのがあるので、そこから引用しよう。

 「柳小路の名は、長妻さんの家のまわりにあった柳の木が目印となり、町の名前となりました。このあたりは、境川が拡がって、川か沼かわからない地形でした。大正11年にはじめて別荘を建てて住みついたのが、中根さんはじめ3軒でした。翌大正12年の震災では、津波は来なかったが、別荘はつぶれ、けが人も出ました。
 この近くには、百両山のような松の繁った大きな砂山や、小さな砂山がいくもあって、松露や初茸がたくさん採れました。海水浴はこの砂山をこえ、鵠沼海岸まで歩いたものです。
 境川では鮎が釣れ、鰻が捕れました。長妻さんの家のそぱには、川が流れ沼があり、釣りもできました。付近一帯は地盤が低く境川の土手が切れるたびに、床下浸水でした。
 戦時中は、空襲で家を焼かれた人や疎開などで転居者がふえ、戦後は江ノ電が貸家を建てるなど、家もふえ店もできました。
 町が現在の形に落ちついたのは、昭和30年の頃です。今では、柳小路だけで五百世帯になり、気軽に話し合いのできる明るい町作りに励んでいます。」
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鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭

[参考文献]
  • 青木 悠:「夢の中で走った江ノ電」『鵠沼』第83号(2001)
  • 「わがまちミニ紹介シリーズ 柳小路」『鵠沼』第56号(1990)
 
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