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第0208話 新駅と新線計画

橫濱電氣㈱江之島電氣鐵道部に新停車場

 江之島電氣鐵道は1911(明治44)年に橫濱電氣㈱に吸収合併され、《橫濱電氣㈱江之島電氣鉄道部》となっていた。
 開通当初の鵠沼における停車場は、石上、川袋、藤ヶ谷、鵠沼であったが、1920(大正9)年4月1日に高砂(たかすな、現・石上。石上 - 川袋間)・柳小路(川袋 - 藤ヶ谷間)停留所を新設した。
 翌1921(大正10)年5月1日、橫濱電氣㈱が東京電燈㈱に吸収合併され、《東京電燈㈱江之島線》となる。

高砂

 現江ノ電石上駅の位置に新設された。
 この位置は、髙瀨彌一が前年10月、川袋2370-1の畑を武藤正五郎より購入、一部に邸宅を建設し、また砥上2336-1の山林を田中半七より購入、《髙瀨住宅地》として分譲を計画していた土地に隣接していた。
 江の島道の石上通りから高砂停車場の脇を通り、川袋髙瀨邸の門前に通ずる自動車道路を敷設し、《高瀬通り》と呼ばれるようになる。この新停車場開設の時間的空間的符合が、こうした動きと無関係だったとは考えにくい。
 高砂(たかすな)とは目立って小高い砂丘を指す。かつては江ノ電に沿って顕著な砂丘列が見られた。最高地点はカトリック藤沢教会の建つあたりで、現在の八角形の礼拝堂は、藤沢駅南部区画整理の際、砂丘を切り崩して建てられた。この砂丘列は高砂停車場西方まで延びていた。現在この名は東側の高砂公園に残っているが、小字ではない。

柳小路

 この位置は、江之島電氣鐵道開設当時には、脇を曲流した片瀬川が並行して流れていた。
 1917(大正6)年9月30日の出水でショートカットが行われ、現在の流路が確定した。しかし、大水の度に旧流路を突進した水は、江ノ電の土手を突き崩したりしている。
 江戸時代にはさらに西方まで片瀬川は深く曲流していたらしく、高座・鎌倉郡境線はここで不自然なほど屈曲している。これが片瀬川の旧流路を示すのかどうかは、それを示す絵図などがあれば明確になるが、残念ながら見たことがない。
 この屈曲部の鎌倉郡側の小字名が桜小路である。現在は公園の名にかろうじて残っている。この桜小路になぞらえて柳小路の停車場名がつけられたのだろう。
 停車場付近は無人地帯だった。停車場の開設によって中根氏はじめ3軒の別荘が建てられたのは、1922(大正11)年のことだったという。
 周辺が《柳小路住宅地》として開発されるのは大震災後のことである。

茅ヶ崎・辻堂・鵠沼線計画

  大正から昭和にかけて京浜―湘南間にまき起こった鉄道建設ブームの中で「江ノ電」も又、自ら新しい路線計画を持っていた。
 この計画は、1922(大正11)年12月 22日、 江ノ電の前身だった《東海土地電気株式会杜》名義で出願・認可されたもので、勿論、電気鉄道である。計画路線は、大船―鵠沼―辻堂―茅ヶ崎に及ぶものであり、一部着工もしていたが、このうち次の二線部分が具体的に記録に残っている。
     ┌茅ケ崎町―藤沢町鵠沼(海岸)4.61マイル(7.42km)
     └藤沢町辻堂―辻堂海岸    0.77マイル(1.24km)
 この二線の建設費は 50万円だった。
 当時別荘地として急速に発展していた鵠沼地帯と辻堂地区を江の島・鎌倉と結ぴさらに京浜間との交通の便をはかるとともに、自らも土地開発を行っていくという趣旨のものだった。しかし翌1923(大正12)年9月1日の関東大震災のため、この鉄道敷設事業は大打撃を受け、さらに世界恐慌のため、多くの銀行が休業し失業者が増えていった。《東海土地電気》は、この時辻堂停車場の敷地まで買収していたが、度重なる工事延期願いのため、1930(昭和5)年に免許取消になり、立消えてしまった。
 また、辻堂に《横須賀海軍砲術学校辻堂演習場》があるため、軍部の反対もあったという。
E-Mail:

鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭

[参考文献]
  • 青木 悠:「夢の中で走った江ノ電」『鵠沼』第83号(2001)
 
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