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第0003話 須賀(すか)と高砂(たかすな)

 「砂丘」という語は、明治以降ヨーロッパの近代科学が導入された段階で、地形学の“dune”または“sand dune”の訳語として日本で作り出された漢語で、中国語では「流沙」または「沙丘」が相当する。この「沙」は「砂」と同義語である。だから、江戸時代以前の文には「砂丘」の語は出てこないと聞く。
 では、やまとことばでは古来何といったかというと、「すか」もしくは「たかすな」だったらしい。「すか」は、通常「須賀」という音読みの漢字が充てられるため、漢語と思われがちだが、やまとことばである。
 神奈川県内には、かつて海軍鎮守府が置かれた軍都「横須賀」があり、平塚には「須賀」漁港が見られる。また、茅ヶ崎には「浜須賀」があり、市立浜須賀小学校、浜須賀中学校が置かれている。
 なお、同じ「須賀」の文字を充てて「すが」と読む場合がある。神社や苗字に多く見られ、神社の場合、「菅」や「須我」「清」「酒賀」「素鵞」「蘇我(曽我・曽賀)」を充てることもある。日本全国に分布するが、島根県、高知県に特に多いという。牛頭天王(ごずてんのう)・須佐之男命(すさのおのみこと)を祭神とする祇園信仰の神社のことで、砂丘とは関係がない。
 ところで、かつて鵠沼にも「横須賀」という小字名があった。現在の鵠沼神明一丁目、日本精工から湘南高校にかけての一帯である。この辺りは「奈須野ヶ原」と呼ばれたこともあるらしい。これは1184(寿永 3)年、那須与一宗高が屋島にて扇の的を射たる弓一張と残の矢を神明宮に奉納、併せて、領地那須野百石を寄進したと伝えられることに因むと思われる。このために神明宮例大祭の一番山車(宮ノ前)の人形は那須与一だとされる。いずれこれらの事情はこの千一話で詳述する予定である。


 次に「たかすな」である。これは当然「高砂」の字を充てるが、これには「たかさご」の読みもあり、能の演目にもなっていて、むしろこちらの方が有名である。「砂」のやまとことばには「すな」の他に「まさご」あるいは「まなご」があって、こちらの方が一般的だった。辻堂東海岸で生まれたといわれる名曲「浜辺の歌」で、作詞者の林 古渓は、二番の歌詞に「はまべのまさご、まなごいまは」と両者を並記している。
 「たかさご」は「まさご」から来ているのだろう。「高砂の尾上の松」という文学的表現は、「海岸砂丘の稜線上のクロマツ」という味も素っ気もない表現もできる。
 ところで、湘南地方の高砂は「たかすな」と読むのが一般的で、「たかさご」の例を知らない。
 茅ヶ崎には「高砂緑地」があり、辻堂西海岸には「市立高砂小学校」がある。
 現在の江ノ電石上駅は、1920年から1940年まで「高砂停留所」といい、石上停留所は開業時(1902年)以来別にイトーヨーカドー脇の坂を登った辺りにあった。両停留所とも1940年2月末日で戦時廃止となり、1950年7月15日に高砂停留所が石上駅の名で復活したのである。現在はここから東方に「高砂公園」も開設されているが、付近にこれらの地名の元となった顕著な砂丘は見られない。1921年測図の1:25,000地形図では、現在のカトリック藤沢教会辺りから南方に延びる砂丘列が見られる。あるいはこれかも知れないと睨んでいる。

 村岡に住んでいた評論家・婦人問題研究家の山川菊榮が1943年に著した『我が住む村』に次の件がある。
 「三月は桃の節句で、田畑のへりから絹のように軟かな蓬の新芽を摘み、香りの高い草餅を供へてお雛様を祭り、女子供はつゝましやかなお花見に行きました。何事も型通り、仕來り通りのその時代には、お花見の季節といへば、判で押したように毎年キチンとお花見に出かけたものです。これは女子供の遊びの日で、所は桃の名所、鵠沼の高砂あたりが多かつたようです。今は高砂通りも家ばかりで、東京の住宅街のような詰らぬ所になつてしまひ、海が見える所ではありませんが、もとはその名の通り、強い南風で吹きよせられた高い砂の山でした。その高い砂山の桃林の中から、遙かに蒼い海原を見渡しながら、お辨當を開き、濱へおりては鰯の地引網や、用意して行つた鎌で貝を掘り出したりして、一日のんびりと遊んだものです。」
 ここに出てくる高砂は、現在の鵠沼藤が谷四丁目と鵠沼桜が岡二丁目の境界付近にあった海抜18m程度の砂丘を指すと思われる。大正時代には文字通りの砂山で、大東の関根佐一郎さんは、小学生の頃わざわざここまで来て砂滑りをして遊んだ想い出を語っておられた。
 それが震災後村岡から花見に訪れるようなモモ畑になり、昭和初期には山口寅之助(瑙彌一の叔父)によって「松島苑住宅地」が開発されることになる。
 山川菊榮の文に出てくる「高砂通り」とは、「山口通り」ともいう上岡バス停から江ノ電鵠沼駅方向に向かう道路で、「松島苑住宅地」開発によって整備され、この書が発行された頃には邦枝完二(作家)、林達夫(評論家)、南部圭之介(映画評論家)邸が軒を連ね、「東京の住宅街のような詰らぬ所」になってしまっていた。

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鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭

 
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