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第0195話 道路開通式

鵠沼地内(上山本橋~石上~鵠沼停留所~海岸)の道路開通式髙瀨邸内で開催

 『藤沢市史年表』の1917(大正 6)年4月に「藤沢町、別荘地内の道路新設と修築工事完成とあり、さらに」5月10日の項に次のような記述がある。
 「鵠沼地内(上山本橋~石上~鵠沼停留所~海岸)の道路開通式高瀬邸内で開催」
 このルートはおおよそ見当がつく。
 「石上」がどのポイントかに若干問題があるが、1873(明治 6)年6月2日、鎌倉道片瀬川の渡船を廃止し、架橋することについて神奈川県より大蔵省へ伺いが出され、同年10月には片瀬村の名家=山本家が架橋し、「山本橋」と名付けられた。これが江之島電氣鐵道開通以前に下流に新しい「山本橋」が架橋されたことにより、「上山本橋」と改称された次第については、第0105話で述べた。
 ここ(当時は鎌倉郡川口村だった)を出発点に、現在の鵠沼石上3-3の三叉路(これが「石上」だろう)を左折して、江之島電氣鐵道発電所の脇を通り、川袋停車場から江之島電氣鐵道に沿って藤ヶ谷停車場と鵠沼停車場の中間で線路から離れて賀来神社脇を過ぎ、「海岸通り」を南に向かい、大曲の辻で右折し、東仲通りを通って海岸に出るルートである。
 このルートは全く新たに道路を敷設したわけではない。恐らく人力車用の道路を拡幅して、自動車が走れるようにしたものと思われる。ことに川袋から藤ヶ谷の間、江之島電氣鐵道に沿う部分は、線路と道路が並行するのではなく、路面電車になっていたのではあるまいか。
 1917(大正 6)年というと、鵠沼海岸別荘地開発が完成期を迎えていたが、明治中期、不毛の砂原に道路網を敷設し松樹を植えて始まった日本初の大型別荘地分譲は、人力車の時代だった。従って、この道路網は人力車用道路に過ぎなかった。これは、今日に至るも根本的には改善されていない。従って鵠沼松が岡は市内で最も災害に弱い地域に指定されている。踏切も狭く、大型消防車が走れる道が限られているからである。この問題については、ずっと後に別項を立てることになろう。
 乗用車の実用化に大きなエポックをもたらしたのは、1907(明治40)年の米国「ヘンリー・フォード社」が量産した「フォード・T型」だといわれる。これを輸入して、日本でも1912(大正元)年にはタクシーの営業が始まる。
 さて、次に問題になるのは、鵠沼のような片田舎に自動車が走れる道を造ろうとたくらんだのは誰かということである。年表4月の記載から考えられるのは、藤澤町だろうが、恐らくそれだけではないだろう。
 解答は、この道路開通式が髙瀨邸内で開催されたことにある。公共事業ならば、公的な場所で開通式が行われて当然であろう。私邸で行われることはあり得ない。
 時は髙瀨三郎没後1年ほどである。発想は三郎の生前だった可能性もあるが、髙瀨彌一の実業家として最初の事業だったのではあるまいか。震災後、橘通から熊倉通りへ続く「高瀬通り」に名を残している彌一であるが、時代を先取りする事業家としての芽は、この段階で既に芽生えていたと考えられる。 
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鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭

[参考文献]
  • 藤沢市:『藤沢市史年表』
 
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