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第0191話 長谷川路可東京美校へ

暁星中學時代

 長谷川龍三、後の長谷川路可は、東京の暁星學校中學部の寄宿舎に暮らし、母の住む鵠沼には夏休みや年末年始に帰省する程度だったと思われる。帰省すると年下の従弟妹、長谷川欽一・福田光代の兄貴分としてよく遊んだ。
 また、東屋に滞在する文人・画家とも交流した。
 暁星中學時代には、美術とキリスト教に出会い、これが彼の生涯を決定づける。
 1914(大正3)年の夏に長谷川龍三少年は病後の静養の目的で北海道の《トラピスト修道院》にひと夏を過ごした。  「同宿していた詩人、三木露風さんと親しくなったのはこのころであります。」と路可は記している。「また三木露風さんからは芸術の尊厳について説かれていました。」とある(『中日新聞』昭和38年12月15日)。
 さらに「長谷川君は画家になりたまえ。芸術家になってこそ生きがいのある人生が送れるのだ」といわれ、「そして信仰をもつことだね。フラアンゼリコのような素晴らしい宗教画を描きたまえ。長く世にのこるような傑作を修道院の教会堂に描いて、お参りにくる人びとを感動させるんだな。人生は朝露のごとく芸術こそ千秋不滅であることを知らねばならない」と諭された(『PHP』昭和41年10月号)。
 実は、三木露風が夫人と共に洗礼を受けてクリスチャンになったのは、路可の受洗より遅く、1922(大正11)年4月16日、復活祭の日であった。
 ともあれ、この三木露風との出会いは、その後の長谷川龍三の生涯に大きな影響を与えたことは確かのようだ。
 北海道から戻って、その年の暮れ、長谷川路可は暁星のハンベルクロード神父より洗礼を受け、クリスチャンになった。洗礼名はLucas(ルカ。当時の訳では路加(ロカ)=聖ルカは医師と画家の守護聖人)。「路可」の雅号はこれに由来することはいうまでもない。
 年号が明治から大正へ替わると、日本画壇に大きな転機が訪れた。
 1898(明治31)年、東京美術學校第2代校長だった岡倉天心が排斥されて辞職した際に、自主的に天心と共に辞職した美術家たちは《日本美術院》を結成した。その展覧会が《日本美術院展覧会(院展)》である。日本美術院は天心を排斥した側、《狩野派》《土佐派》など伝統的な家元制度を重視する旧派の《日本美術協会》と対立構造が明確化していた。これを調停する目的から文部省が各派を統合する形で国家主導の大規模な公募展、すなわち官展として1907(明治40)年に開始したのが《文部省美術展覧会(文展)》である(これを《初期文展》とも呼ぶ)。一方日本美術院は、1910(明治43)年、岡倉がボストン美術館中国・日本美術部長として渡米したことにより、事実上の解散状態となり、日本美術院のメンバーも文展に出品するようになる。
 1914(大正3)年、文展の審査員を外された横山大観らは、前年に岡倉が没したことを契機にその遺志を引き継ぐ動きを見せ、日本美術院を再興する。そしてこの年の10月、再興第1回《日本美術院展覧会(院展)》が開かれ、その記念すべき展覧会に中学5年生の長谷川龍三は出品し、初入選するのである。出品作は鵠沼海岸で漁網を干す漁師の姿を描いた『浜辺にて』と題する水彩画であった。翌年の再興第2回院展にも『工場の裏』[水彩]が入選している。

浪人時代

  この段階で龍三がどのような手段で美術を学んでいたか、渡邊華石(1852-1930)に師事し、南画を習得したこと以外は残念ながら詳らかではない。既に紹介した水墨画、水彩画の他に油彩画も遺っている。『少女像』と題された作品は、従妹の福田光代を描いたもので、1915年とあるから、中学卒業後、あるいは、少女の服装から見て、卒業直前の冬の作かもしれない。‘LUC'と判読できるサインが見られる。受洗の翌年にすでに洗礼名のLucasを雅号に考えていたとすれば注目に値しよう。
 暁星中學を卒業した龍三は、東京美術學校(東京藝術大学の前身)を受験したが、1回ではパスしなかった。何しろ今も昔も数十倍の倍率を誇る全国最難関の受験である。現役合格は奇跡に近い。再チャレンジで合格した龍三は天晴れというべきであろう。
 この1年間に、長谷川家では大きな事件があった。
 1916(大正5)年1月、叔母の東屋の初代女将=長谷川 ゑいが入院先の鎌倉の病院で死去したのである。
 このことにより、龍三の母=たかが女将を受け継ぐこととなった。
 この、大正期前半は、わが国初の別荘分譲地《鵠沼海岸別荘地》がほぼ完成段階を迎え、華族や財閥の大別荘に加えて、小規模な貸別荘も多く建設された。これら貸別荘の住民には若い文士(《白樺派》の武者小路実篤、小泉鐵など)や画家(《草土社》の岸田劉生、椿 貞雄、横堀角次郎など)がおり、彼らを訪問する芸術家や出版人、ジャーナリストなどが東屋に宿泊したり、交流の場に利用することも多く、東屋は芸術家のサロンといった観があったという。
 美校に進んだ路可も、帰省した折などにこうした雰囲気に触れる機会も多かったであろう。
 このころ、東屋にほど近い硲(はざま)家の別荘に、龍三より2歳年上の洋画家=硲 伊之助(1895-1977)が滞在するようになった。伊之助は17歳にして《ヒュウザン会》(→フュウザン会)第1回展(1912年)に名を連ねたという早熟な画家である。年代も住居も近い二人は、しばしば交流を持ったようである(『鵠沼』83号参照)。

東京美術學校日本畫科へ

 1916(大正5)年の4月、龍三は東京美術學校日本畫科に晴れて入学し、雑司ヶ谷(ぞうしがや)に住むことになった。
 美校で路可は、国画の第一人者=松岡映丘(えいきゅう)(1881-1938)に師事した。
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鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭

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