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路可とグライダー長谷川路可は、「恐らく、日本で最初にグライダー滑空をやってのけたのが、何とこの僕ですから、うそみたいなお話であります。いや、まったく信じられないようなお話であります。どなたか図書館に行って、明治四十五年の七月の国民新聞を、根気よく探して御覧なさい。この僕が滑空している写真入りで、デカデカと掲載されているのだから驚きですよ」と文化女子大学『あけぼの』7号(1965.3)に書いている。私も疑い深い方だから、横浜の《新聞博物館》に出掛けて、アーカイヴ所蔵のマイクロフィルムから「明治四十五年の七月の国民新聞を、根気よく探して」みたが、発見できなかった。 茨城県神栖市の砂山都市緑地には《大日本滑空始翔乃地碑》が建っていて、この石碑には、「始翔 」「我国初めての」「日本最初の」と いう文字が刻んであり、あたかも1930(昭和5)年7月11日が日本におけるグライダーの初飛行 という印象を受けるそうだ。 佐藤博著、木村春夫編「日本グライダー史」(1999)によれば、「明治42年(1909)、フランス武官ル・プリエー海軍中尉、相原四郎海軍大尉の協力を得て竹の骨組み複葉グライダー製作、12月26日、上野不忍池端で、自動車曳航にて試験飛行実施。滑空距離約20㍍。」とあり、これが日本初のグライダー滑空記録のようだ。 陸軍航空大隊3機で鵠沼汐入の洲に着陸日本で最初に動力飛行機で空を飛んだのは、日本陸軍の日野熊蔵が1910(明治43)年12月14日、ドイツ製単葉機ハンス・グラーデで代々木練兵場の滑走路で飛行距離25m。第2回目は60mの記録がある。同年12月19日に陸軍の徳川好敏大尉がフランス製複葉機アンリ・ファルマンで3000mを飛行しており、日本ではこの日を「日本初飛行の日」としているという。 1903(明治36)年のライト兄弟初飛行からわずか7年後のことである。 帝國陸軍は1909(明治42)年7月に我が国の航空技術の 向上を目的として「臨時軍用気球研究会」を発足させ、 研究会は飛行場建設地を所沢に選定し、1911(明治44)年4月に臨時軍用気球研究会所沢試験場が開設した。 第一次世界大戦で連合国の一員となった日本は駆逐艦隊を地中海に派遣する一方、 ドイツ帝国の中国における根拠地である青島を攻略した。これに参加する青島派遣航空隊(装備機5機および気球1基)は1914(大正3)年3月23日に編成を完結した。 派遣航空隊は青島攻略兵団の独立第一八師団司令部付となり爆撃・偵察任務についた。 翌1915(大正4)年に気球隊が改編され、航空大隊が編成された。 航空大隊は所沢に置かれた。 1917(大正 6)年1月16日、「陸軍航空大隊第5期練習将校、3機で耐寒飛行のため所沢から鵠沼汐入の洲に着陸。伊東將行らが歓迎会を開催」という記録がある。歓迎会を開催する(恐らく東屋で)ほどだから、不時着ではなく、予定の行動だったのだろう。この時、鵠沼の人々の多くは生まれて初めて飛行機を眼にしたのではなかろうか。
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