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第0187話 鵠沼トラホーム指定診療所

鵠沼トラホーム指定診療所

 『藤沢医史』に次のような記述がある。
 「我が国にトラホームが爆発的に流行し始めたのは明治三十年頃からである。明治三十年山形県知事の訓令文書では「山形市及其付近の小学校学童を検診し」その四分の三がトラホームであるという。また明治三十五年、新潟県では十四万生徒児童中四三%の患者があったという。
 神奈川県では明治四十五年の統計で十三・二九%であり低い方ではあったが、トラホームの生徒児童への感染流行は学校衛生上問題となった。大正三年、大日本学校衛生協会の提唱でこれが予防法に関する答申がなされている。これによって大阪堺町では町費を以って生徒学童のトラホーム治療を始めている。
 藤沢においても大正五年、髙松良夫等町会議員の発議で「鵠沼トラホーム指定治療所」なる議案が通過し、藤沢地区及鵠沼地区にトラホーム指定治療所が設けられて、積極的にその治療がはじめられた。この時の治療担当医は坂本泰二郎・小池重貞である。この時応援に来藤した千葉良三は小池眼科医院において診療に当った。後に小出村にて開業するきっかけとなった訳である。
 この町費によるトラホーム検診、治療は大正八年トラホーム予防法が公布されて、市町村は その予防、治療に関する施設を設けねばならなくなった。これに対して国及び府県から補助がなされた。大正十三年には眼科関係の診療を行なっている学校は全国で二五五校、最も多いのが秋田県の五〇校次いで神奈川県の三八校となっている。明治期の監視的学校衛生から、福祉的学校衛生への転換を示すもので、藤沢では早くよりこのようなことが実行された訳である。」
 この《鵠沼トラホーム指定治療所》というのがどこにあったかは明確な記述が見つからない。一説に現在の鵠沼松が岡一丁目、江ノ電鵠沼駅近くということを聞いたことがあるが、上記のような生徒学童の治療を目的とするのならば、学校からこんなに離れた場所にあるはずがない(片瀬は鎌倉郡だった)。当時、藤沢町内に眼科専門の開業は見られない。発議者として髙松良夫の名が挙がっていることから、《髙松内科醫院》内だった可能性が高いと睨んでいる。
 第0173話で紹介した『死の家』で、森 志げ女が「赤いくしやくしやした目をした子供達」と書いているのが当時流行ったトラコーマ(トラホーム)によると思われると推測したのは、以上のような状況による。
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鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭

[参考文献]
  • 藤沢市医師会:『藤沢医史』(1984)
 
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