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『生ひ立ちの記』湘南海岸の『浪乘』を初めて文章化したのは内藤千代子であろう。千代子は日本人女性として初めて槍ヶ岳に登頂するなど、活発な女性だったが、それは少女時代から始まっていたらしい。1914(大正3)年に《牧民社》から刊行された『生ひ立ちの記』の中の「歡喜に輝ける夏」にそれが描かれているので引用しよう。全文を読みたい方は下記[参考サイト]をクリックされたい。 『生ひ立ちの記』に見る鵠沼海岸『歡喜に輝ける夏』:内藤千代子けれど何と云つても一番待ちかねて樂しかつたのは夏季(なつ)の海水浴でした。 當地(こゝ)の海は遠淺(とほあさ)ですけれど割合浪が荒いので『浪乘』には持つてこいなのです、痛快ですよ。板子一枚に身を託して、小山の様な大浪と共に、つーと岸邊をさして突進する愉快さ。抜手を切つて泳ぐ、浪の底をくゞりつこする、流石(さすが)女の兒で、頭髪(あたま)のことが少し心配になりましたけれど、そんな事は最初の中(うち)、興がのつて來れば、夢中になつて了(しま)ひます。唇の色の紫色に變つたのも知らず、齒の根も合はずガチガチと鳴らしながら、冷え切つた身體(からだ)を、足も踏み立てられぬやうな熱砂の上へ轉がしてあたゝめる。ぢりぢりと手足の色の焦げてゆくのが眼に見えて、恐ろしくなつたこともあります。 さうして絞るばかりひた濡れた髪の毛は、そのまゝで家へ歸れば叱られるが苦しさに、炎天乾(えんてんぼし)にしてかはかすのですからたまりません、盬分がねちねちとこごつて了つて、櫛の齒も何も通りやしない。 海水着(みづぎ)はいろいろありますが、おもに横縞や網形や龜甲形(きつかふがた)のメリヤス襯衣(シャツ)、あれは子供にはともかくも、もう一人前の婦人には随分恰好がわるい、太い腰、丸い肩、ふくらんだ胸、あんまり挑發的でもあります。で、思ふやうに活動は出來ませんけど、念入のレデイー達は外國の婦人服めいた襞の多い―それもキヤラコなどは濡れるとぴつたり肌に吸ひつきますが――紺のアルパカ製などに、護謨引(ゴムびき)の防水帽(みづぼう)の上から經木帽(きやうぎぼう)面深(まぶか)、靴下はいて手袋まではめてゐらつしやいます。 浮袋や綱に取つく事を嘲(あざけ)つて、あまりお轉婆の過ぎた報いには、深處(ふかみ)に陥(お)ちかゝつたこともあれば、波に引かれて横倒しになり、どうしても起き返られず、思ふさま潮をのんだこともある。海水を吸ひこむ時の鼻の痛さかげんと云つたら、もげるかと疑はれるほどです、實驗しない方にはお話になりません。 濡れしほれた白猫(ねこ)みたいな風をして上つてくる時分には、もう手足も抜けさうに草疲(くたび)れきつて了ふのですが、めげずに咽せるやうな草いきれのほこりを蹴立つて馳せ歸りますわ。海水着(みづぎ)を物干竿(さを)にかけるのももどかしく、つけてある西瓜(すいくわ)の綱を手繰(たぐ)り上げる時のたのしみさ。井中(せいちう)に冷え切つた甘い漿液(しやうえき)が甘露とも何ともたとへやうなく、見得もなく顔いつぱいに櫛形の大切れを抱えこんでかぶりつきながら、天下の果報者我一人、といふやうな顔をするのでした。 さすがに若き女性で、当時の海水浴ファッションにも目が良く行き届いている。 |
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鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭 |
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