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東屋二代目女将=長谷川たか1916(大正5)年1月7日、旅館東屋の初代女将=長谷川ゑいは、腸閉塞のため鎌倉の病院で没した。墓所は当時下鰯の細川別邸内にあった慈教庵である。(この墓石は伊東將行が建てたもので「伊東榮」の名が刻まれていた。後に長谷川家の手で「長谷川榮」に直されたという)2代目女将にはゑいの姉=長谷川たか(多嘉・タカとも)が就いた。たかは長谷川家の次女。長女は夭折したので、実質上長女の役割を果たしていた。ゑいが才色兼備で人気があったのに対し、たかは極めてしっかり者であったといわれる。 たかは、東京芝で勲章所勤務の杉村清吉と結婚し、やがて長男=龍三をもうけた。後の画家=長谷川路可である。 杉村清吉については、詳細は不明だが、インターネット上にこういう記録がある。 「【勲章の誕生】勲章のデザインについて,古い『大給亀屋公伝』によると,大政奉還後の1871年(明治4)に,左院において「貫牌ノ制」が初めて議せらる,とある。翌々年に,議官細川潤次郎ら5人に対し,「メダイユ取調御用掛」が命ぜられた。このなかには,陸軍奉行であった大給恒が,調査のリーダー格として入り,奮闘している。(中略)大給氏は美術的造詣も深く,自ら「旭日章」の図案までつくったほどであった。しかし,七宝のつけ方がなかなかうまくいかず,幕府時代の刀剣金具師で,七宝焼の家元であった平田春行に命じて苦心を重ねた結果,ようやく満足すべきものができ上がった。綬の織目に水紋を織り出したのは,杉村清吉氏の発明によるもので,わが国の勲章所大給恒・平田春行・杉村清吉の3人の合作ということになっている。」 ここに出てくる大給 恒(おぎゅう ゆずる)は、旧三河奥殿藩第8代藩主で、旧名は松平乗謨(まつだいら のりかた)のことで、明治中期には賞勲局総裁、子爵であった。このため、鵠沼海岸別荘地を開発した大給子爵とよく混同される。後に日本赤十字社の母体となる《博愛社》の設立と育成に貢献した。1907(明治40)年には伯爵に陞爵している。 1907(明治40)年1月、たかは杉村清吉と協議離婚し、妹=ゑいを頼って本籍を鵠沼村7365に独立させる。10歳の一人息子=龍三は母=たかが引き取る(本名:長谷川龍三となる)が、暁星學校の寄宿舎に入っていた。 2代目女将=長谷川たか時代の東屋は、関東大震災を境に2期に分けられる。あるいは後期は小田急開通を境にさらに分けて、全部で3期に分けられるともいえよう。 第1期の大震災前は、初代女将=ゑいが築いた「文士宿」として、また、保養旅館としてさらに発展すると共に、湘南随一の旅館として、藤沢町の賓館としての役割も担うようになった。 1923(大正12)年の大正関東地震で建物は全壊し、庭池には津波が押し寄せた。折しもフランスに遊学したばかりの長谷川欽一は、急遽呼び戻され、たかと共に復興にあたった。 震災の翌年には営業は再開されたが、建物はさらに立派になり、ダンスホールやビリヤード場も設けられた。庭池は小さくなり、2面のテニスコートが設けられた。これにはハイカラ好みの欽一の意見が反映されているのだろう。 1927(昭和2)年、一人息子の長谷川路可が「藤沢町が誇る世界的大画伯」としてフランス留学から帰朝し、東屋に隣接してアトリエを構える。翌年に路可は結婚し、3人の孫が次々に生まれた。 1929(昭和4)年の小田急江ノ島線の開通は、東屋にとっても交通アクセスの便を格段に上昇させた。海水浴客は増加したが、日帰り海水浴が一般的になり、滞在型の利用は減少していった。また、静謐な雰囲気も薄れ、「文士宿」としての役割も少なくなっていったと考えられる。 1937(昭和12)年、長谷川路可は文化学園の招きに応じ、目白の徳川義親邸の一角が分譲された時に自邸を構え、鵠沼から転居した。そこに老母たかの隠居所を建て、病弱になったたかを呼び寄せたのである。 しかし、その甲斐もなく、1938(昭和13)年9月7日、長谷川たかは目白で72年の生涯を閉じた。墓所は慈教庵から改称したばかりの夢想山本眞寺墓地の最北端に妹=ゑいの墓に並んで建つ小さな五輪塔である。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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