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第0185話 鵠沼文化人百選 その008 硲 伊之助

プロフィール

 硲 伊之助(はざま いのすけ 1895(明治28)年11月14日-1977(昭和52)年8月16日)は洋画家 版画家 陶芸家
 17歳最年少でヒュウザン会に参加、二科会、春陽会をへて一水会創立メンバー。日本版画協会(1931設立)会員、東京藝術大学美術科教授。
 1921-1930滞仏、1933-1934再渡仏。マチスに師事。1950年マチスに招聘され日本における最初のマチス展(1951)開催を実現する。この頃から陶芸に手を染め、加賀吸坂に窯を築き三彩亭と号して染付けの製作をする。文士との交友ひろく、本の装丁、挿画も数多く手掛けている。

鵠沼とのゆかり

 硲家が鵠沼に別荘を所有していたのは1916(大正5)年から1940(昭和15)年頃までで、所在地は鵠沼上鰯5217。今の住居表示でいう鵠沼海岸二丁目16番《東急ドエル・シーサイドコート鵠沼海岸》のところで、敷地は国道134 号線ができるまでは3,000坪はあったという。硲伊之助の父、文七は紀州和歌山の出身で日本橋の漆器商、木村屋の番頭を勤め、かたわら石油商をいとなみ東武鉄道などに重油を納めていた。伊之助が育った頃は、向島の硲家は敷地一万坪余、すでに相当な資産家として財を成していたという。
 1916(大正5)年、伊之助は結核を患い、硲家はその療養の目的で鵠沼に別荘を構え療養生活を送らせた。この時期が鵠沼をモチーフとした第1期といえる。硲の家族はその後、毎夏、ここに避暑に来るのが慣わしとなった。
 今井達夫によれば「鵠沼」という地名を最初に中央画壇に知らしめたのは1918年9月第5回二科展に「鵠沼の白い橋」「鵠沼風景」ほか26点を出品した硲であるという。硲はこの時、二科賞を再度受賞した。
 劉生日記にも硲との往来は記述され、硲家別荘番の福さんは劉生の将棋(五目並べの間違い)の好敵手であったと井伏鱒二は書いている。
 伊之助の妹、八代子(1909(明治42)年生まれ、「鵠沼を語る会」岡田会員の義母)は関東大震災に、ここで罹災している。女学校2年生であった。津波に追い立てられるようにして祖母とお隣の藤堂さんのご家族と一緒に高台のほうに必死で逃げたという。後に立ち戻ってみると2階建ての母屋は津波の引いた後1階が波にさらわれ2階部分が平屋のようになってしまっていた、丁度高床式の平屋のような感じで、それに手を加えてその後も別荘として使用したらしい。また、大きな池があったが震災後はちいさくなってしまったという。
 1929(昭和4)年から2度目の渡欧をする1933(昭和8)年の間が鵠沼を描く第2期である。
 八代子は1934(昭和9)年3月、高桑雄吉と結婚。この敷地内に家を確ててもらい、1940(昭和15)年まで居住した。当時敷地内にはほかに2棟ほど建屋があって、その1棟で丸政の親戚筋にあたる石井利作さんお松さん夫妻一家が別荘番をしていた。
 ちょうどこのころは、伊之助は二度目の洋行から戻った時(1935(昭和10)年)で仲の良かった妹のところに良く遊ぴにきた。鵠沼をモチーフとする第3期である。
 長谷川路可との交友はおそらく滞欧中に始まったもののようで、第2期、第3期頃は、互いに親しく行き来したと八代子は語っている。     ※この項、主に下記参考文献より引用。

硲 伊之助 鵠沼関係年譜
    
西暦 和暦 記                        事
1895 明治28 11 14 東京市本所区向島に硲 文七、八重の三男として生まれる
1912 大正元 9 ヒュウザン会第1回展覧会に出品(17歳)
1916 大正 5     画家=硲 伊之助(1895-1977)、療養のため鵠沼上鰯5217(鵠沼海岸2-16)の別荘に居住
1918 大正 7     第5回二科展で『鵠沼の白い橋』『鵠沼風景』など26点を出品し再度二科賞を受賞
1921 大正10 4 5 鵠沼在住の岸田劉生を訪問
1921 大正10 7 31 フランス留学のため鵠沼上鰯5217(鵠沼海岸2-16)を離れる(在仏中長谷川路可と交流)
1928 昭和 3 5   ロゾラン・アデリア・エルビラ(イタリア系フランス人)と結婚
1929 昭和 4 11 4 フランスから帰国、再び鵠沼上鰯5217(鵠沼海岸2-16)に居住。近所の長谷川路可と交流
1933 昭和 8     再渡仏、春陽会脱退。版画家=長谷川潔とともに「日本の近代版画とその起源展」開催に尽力
1935 昭和10   帰国。妹の住む硲家別荘に時折滞在
1837 昭和12     一水会創立に参加、第1回展に『鵠沼の想い出』『砂丘』ほかを出品
1940 昭和15     鵠沼上鰯5217(鵠沼海岸2-16)を去る
1977 昭和52 8 16 石川県加賀市吸坂で没。享年81
E-Mail:

鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭

[参考文献]
  • 岡田哲明:「硲伊之助と鵠沼」『鵠沼』第83号(2001)
 
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