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第0175話 谷崎潤一郎と東屋

谷崎潤一郎最初の東屋滞在

  第0174話で紹介したように、1911( 明治44)年11月から帝大生=和辻哲郎(1889-1960)は、卒業論文執筆のために中藤ヶ谷の高瀬邸に滞在して、卒業論文を執筆したが、その1か月後の12月、一高文藝部の先輩にあたる小説家=谷崎潤一郎が旅館東屋に滞在し、『悪魔』を執筆する。滞在は24日までの1か月足らずであったが、その間、東屋から和辻宛、来訪を慫慂する手紙を使者に持参させる。画家・上野山清貢が訪れて和辻の事情を話したらしく、30日、上野山に和辻宛の手紙を託しているというが、滞在は24日までとすれば、帰京後ということになり、いささか疑問が残る。
 この時、和辻は22歳、谷崎は25歳であった。
 谷崎と和辻は共に一高文藝部員であり、帝國大學文科大學在学中に和辻哲郎らと第2次『新思潮』を創刊し、処女作の戯曲『誕生』や小説『刺青』(1909年)を発表している。

谷崎潤一郎、東屋の亭に滞在

 谷崎はその後数回鵠沼を訪れるが、その度に東屋を利用したようである。
 記録に残るものとしては、1914(大正3)年3月、前年5月からから滞在していた小田原早川口の「旅館かめや」を引き払い東屋の離れに滞在したとあるが、東屋にはいつまで滞在したか不明。
 長谷川路可は、『随筆サンケイ』昭和39年3月号に寄稿した『鵠沼』に「谷崎先生が長い間あづまやの離れ座敷に滞在して小説を書いていた。わんぱく盛りの私は、よくのぞきにいってお菓子を貰った。」と書いているが、この時のことかも知れない。長期滞在は1918(大正7)年が知られるが、路可は東京美術學校時代で、すでに「わんぱく盛り」でお菓子をもらって喜ぶような歳ではなかったし、1911( 明治44)年ならば、お菓子をもらって喜ぶような歳だったが、「長い間」とはいえない。路可は暁星學校の寄宿舎に入っていたから、帰省するとすればクリスマス行事が終わってからだと思われ、12月24日に帰京した谷崎とはすれ違いだったであろう。
 次いで1917(大正6)年5月31日と翌1918(大正7)年1月25日に、いずれも帝國大學卒業後間もない芥川龍之介と中藤ヶ谷の和辻哲郎宅を訪問している。特に後者は東屋に一泊したことが判明しているが、前者は東屋に泊まったというはっきりした記録はない。
 長期滞在といえるのは、1918(大正7)年3月から9月の約半年間、東屋の亭(ちん。離れのこと)に妻=千代子の妹せい子(『痴人の愛』のモデル)と滞在。小説『金と銀』『小さな王国』を執筆。里見弴と交流したことが知られている。
 岡本かの子の出世作『鶴は病みき』には、鵠沼海岸の東屋別館にかの子と隣り合わせの部屋に同じく避暑に来ていた芥川のもとにせい子が遊びに来て、芥川と二人でかの子を侮辱するエピソードが描かれている。
 この長期滞在以降は、東屋利用の記録は見られない。1944年に鵠沼に来訪するが、東屋廃業後である。

谷崎潤一郎鵠沼関係年表
    
西暦 和暦 記                        事
1911 明治44 12   小説家=谷崎潤一郎(1886-1965)、東屋に滞在して『悪魔』を執筆
1911 明治44 12 23 谷崎潤一郎、東屋から和辻哲郎宛に来訪を慫慂する手紙を使者に持参させる
1911 明治44 12   長谷川路可、年末年始帰省の際、東屋滞在中の谷崎潤一郎のもとに遊びに行く
1911 明治44 12  24 帰京
1912 明治45 2 13 萱野二十一(郡虎彦)と会って萱野と連署で鵠沼の和辻宛葉書
1914 大正 3 3   前年5月からから滞在していた小田原早川口の「旅館かめや」を引き払い東屋の亭に滞在
1917 大正 6 5 31 芥川龍之介と鵠沼中藤ヶ谷和辻哲郎宅を訪問
1918 大正 7 1 25 芥川龍之介と東屋に一泊、鵠沼中藤ヶ谷和辻哲郎宅を訪問
1918 大正 7 3   -9月、東屋の亭(離れ)に滞在。小説『金と銀』『小さな王国』を執筆。里見弴と交流
1918 大正 7 9 鵠沼から上京、澤田卓爾のいた愛宕下の下宿青木に1ヵ月ほど滞在
1933 昭和 8 1 11 岡田時彦の長女鞠子生まれる(後に谷崎純一郎が岡田茉莉子の芸名を与える)
1933 昭和 8 8 4 和辻宛書簡に鵠沼で面会したときの記憶を記す
1944 昭和19 7 24 谷崎潤一郎、鵠沼に阿部徳蔵を見舞う
E-Mail:

鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭

[参考サイト]
 
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