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里見 弴とは小説家=里見 弴(とん)(1888-1982)は1909(明治42)年7月23 ~31日、友人中村貫之と東屋に滞在。後に『潮風』に鵠沼海岸を描写している。私がお目にかかったことのある数少ない鎌倉文士の一人である。 里見 弴は、横浜の有島家の三男として生まれ、長兄は小説家の有島武郎、次兄は画家の有島生馬たが、生まれる直前に母の弟の山内英郎が死去したためその養子となり、山内英夫(やまのうち ひでお)となった。 幼少時から鎌倉由比ガ浜の山内家別荘で暮らし、長じて鎌倉市内各所に居を換えたが、戦後はずっと扇ガ谷に住んでいた。 学習院出で、兄らと共に『白樺』刊行には創刊から関わった。 東屋には、その後も鎌倉からしばしば訪れ、愛用したらしいが、正確な記録は余り残っていない。 『潮風』に見る鵠沼海岸海水浴場『潮風』:里見 弴「思ひなしか、蝉の声も、夏の終りに近づいて来たことを知つて、せかせかした気特になつてでもゐるやうに、小松林をこめて、草のむれる匂ひをかき乱してゐた。ダ、ダ、ダ、ダ、ダヽヽヽ長い浜を巻く彼の音が、次第に大きく聞えて来た。 「きつと、波はいゝぜ」 浜に出て見ると、陸上の暖められた空気の稀薄を補ふために、駈足で急ぐ援兵のやうな風が、急にぽうぽうと耳朶(みみたぶ)を鳴らしで行つた。高い竿のさきには、赤旗が千切れさうにはためいてゐる。 「やアこいつア素敵だ」 いつか直衛も、「海の子」のやうな心持になつてゐた。 甘(うま)いものを見ると口のなかに唾がたまつて来るやうに、筋肉がむづむづ動くやうな気がした。 游泳禁止の旗ではあるが、波打際や、砂浜で遊んでゐる男女の少年客などで、葦簀張(よしづばり)の掛茶屋は、相変らず繁昌してゐた。そこで二人は裸になつた。見張の漁帥たちも、かういふ、泳ぎの達者で顔を見党えてゐるやうな連中には、やかましく言はなかつた。 「きヨつけねえよ、茅ヶ崎の方へ、えれえ勢で引いてるのだからなア。……あんまり沖へ出るでねえだ。わかつたなア」 そんな言葉をうしろに聞いて、彼等は、小指のさきで唾を両耳に支ひながら、水のなかに駈け込んで行つた。少しの誇張もなく、大波の高さは一丈からあつた、それが一つくだけると、あたり一面、滝壺のやうになつて、泡立つ音がすさまじかつた。 「どうだい。こいつアちつと脅えるぜ」 さすがに悦三は躊躇(ためら)つたが、 「なアに、大丈夫だよ」 と、もうすぐ波を潜つて、沖へ出で行く直衛の元気に励されて、あとに続いた。 そばへ行つてみると、また、陸から眺めてゐるやうなものではなかつた。天空を摩す、といふが、まつたく、見あげると半ば空を覆ふやうなやつが、あとからあとからと寄せて来た。その、噛みつくやうな勢で寄せて来る大波の根本を狙つて、砂を蹶(け)つて、出来るだけ深く潜る。うまく行つた時でも、ブルブルブルンと、体に烈しい震動を受ける。が、一つ間違はうものなら、いきなり首ツ玉をとられて、ぐんとひとつ突込まれる。はツと思ふ間もなく、腹と腰とが捩(ねぢ)り麺麭(パン)のやうに絞りあげられ、手足は滅茶苦茶にこんぐらかつてゐる。そのまゝで」 前ヘ一つでんぐり返しを打たされて、起直らうとする鼻面を、今度はぐいと後へ突かれ、どうとばかり尻餅になる。もがく足の裏に触れるものさへあれば、うんと力いつぱい嘩返(けかへ)す。と、ひよいと首が水面に出る。石鹸水(シャボンみづ)のやうな一面の泡が、首のまはりを擽(くすぐ)りながら、パチパチはじけ散り、早瀬の勢で、茅ヶ崎の方ヘ押し流して行く。それに抗(さから)ひながら、なほも沖へ進む。また大波に出会ふ。またその根本から潜つて彼方ヘぬける。どうやらかうやらして、波の折れるあたり、といふのは、畝波(うねり)がむくむくと大きくなりきつて、上の力に、鶏冠(とさか)のやうな泡を、チャ チャ チャ、チャツと吐きながら、腹をへこました形になると思ふと、いきなり、どすんと頭からのめりかゝる、あのあたりを言ふのだが、およそそこらまで乗り出して了へば、もうひと安心、滝壺の荒行は終つたのだ。立泳で、畝波のまゝにぷかぷか浮いてゐて、手ごろの波の来るのを待てばいゝ。この畝波について浮きあがつたところを、陸から見ると、まるで半透明な羊羹(やうかん)のなかに仕込んだ紅葉(もみぢ)や花の模様のやうに、体が、――猿股(さるまた)の縞までも、すつかり透いて見える。 やがて、自分が浮いてゐるあたりで折れかゝりさうな畝波が来て、波乗の姿勢をとると、白然に体が、少し沖へ引っ張られる加減に、一丈もあらうといふ波の頂辺(てつぺん)へ吊りあげられる。それを待つて、両手なり片手なりで、ぴたぴたと無上に水面をひツ叩(ぱた)いて、前へ乗り出すやうにする。ササ、、、、ツと波頭がくだけかゝると、そのまゝ、九段の中坂で腹匐にころびでもしたほどの角度に頭がさがつて、腹だけで波の頂辺にとまつた態(かたち)に、胸も手も出て了つて、二間ほどさきへ、逆おとしに飛んで出る。この瞬間の気持が忘れられないために、苦労して、またしても沖へ出て行く気になるので、つまり、波乗の快は、そこが身上なのだ。 波がくだけたあとは、首だけ先へ出して、渦まく水勢に心地よく按腹させながら、のうのうと手足を延したまゝで、渚近くまで、十丁あまりも、可なりの速さでつれて行つて貰ふ。逗子や鎌倉の内海で、丈のたつところで、板子(いたご)など持つてやつてゐるのは、これに比べると、なんのことはない、お嬢様のお慰みだ。 その代り、乗り損つたら最後、沖へ出る折に潜り損つた時の苦みの、十倍ほどの目にあはされる。どつちへどうころげたところで、相手が水だからいゝやうなものの、これが陸だつたら、一度で頭の血が飛んで了ひさうな力で、滅 茶苦茶にこづき廻される。 直衛は八度乗つて、一回半は荒行、悦三は七度まで乗つて二度まで死ぬ苦みにあつた。 」 これで見ると、鎌倉より鵠沼の方が波が荒いのが印象的だったようだ。 明治末期の鵠沼海岸海水浴場には葦簀張りの海の家が建ち、地元漁師が見張りをしていたことが判る。 |
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鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭 |
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