|
日露戦役戦死戦病没者英魂供養碑普門寺の山門を潜ると、境内右手に高さ240㎝という巨大な「日露戦役戦死戦病没者英魂供養碑」が立っている。これは1905(明治38)年に建碑というから、戦後間もなく建てられたのだろう。また、伊勢山公園に並ぶ「忠魂碑」の中には、鵠沼村民が建てたと思われる巨大なものがある。 さらに、各寺院の墓地、共同墓地、村落墓地(野墓)を調べると、巨大な墓石を持つものの多くが日露戦争の戦死者のものである。この時代、鵠沼村には職業軍人はほとんど住んでおらず、巨大な墓の主は、せいぜい伍長クラスまでの兵卒である。鵠沼村民にとって、戦争に出掛け、「名誉の戦死」を遂げることなど、恐らく初めての大事件だったに違いない。 日露戦争における鵠沼村民の戦死者について、具体的な数値は把握していないが、巨大な墓の数の多さから判断しても、相当なものだったであろう。 第0111話で見たように、『神奈川県統計書』を比較すると、1902年よりも1907年の数値がいずれも減少していることに気付く。男が83人、女が51人、戸数が15戸も減少しているのである。 これがすべて日露戦争のためとはいえないにしても、相当な影響が出たことは確かだ。 森鴎外の『海』『藤沢文学年表』の明治36年の項には、「森鴎外、日露戦争従軍中に鵠沼の海を詠んだ『海』をつくる」と記されている。.しかし、この年は日露戦争勃発の1年前だから、「日露戦争従軍中」というのが間違っているのか、記載すべき年がずれているのだろう。いずれにせよ、鵠沼の海を詠んだ『海』がどんな歌なのかは興味がある。鷗外がいつごろ鵠沼を訪れたかも調べてみたい。どうやらこれは『うた日記』に掲載されており、1940年発行の「岩波文庫」になっているらしい。これは多分現在絶版になっているようなので、古本屋を探すしかあるまい。
|