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大分賀来神社江ノ電鵠沼駅の石畳の坂を登ると、突き当たりに藤沢市初の民間交番がある。この建物は町内会が管理する賀来神社の社務所として使われてきたものだという。その裏の小高いところが賀来神社の境内地である。賀来神社には常勤の神官はおらず、皇大神宮が本務神社となっている。さて、賀来(かく)という、関東地方の人間には耳慣れない(近年は、女優の賀来千香子によって読める人が増えた)社名は、この神社がもともとこの地のものではなく、他から遷宮したことによる。 九州のJR久大本線には「賀来駅」がある。現在は大分市の一部になっているが、古くは賀来村といい、平安末〜鎌倉時代には賀来荘という荘園があった。 北九州では、古来「善神王宮」という竹内宿禰の命と建磐龍の命の二柱に対する崇敬が広まっていた。 852(承和 2)年、豊後国大分郡府内由原八幡宮の摂社として善神王宮が創立し、869(貞観ll)年、豊後国司が、この由原八幡宮の摂社善神王宮を賀来村に移し、以来賀来神社と改称されたという。 第0128話に記したように、松平(大給)忠昭が、豊後高松より22,000石で豊後府内藩に入封したのが1658(万治元)年のことであった。以来、賀来神社は松平家の氏神になった。 江戸賀来神社1687(貞享 4)年、豊後府内藩主松平家は、江戸上屋敷を現在の神田淡路町1丁目に構え、1779(安永 8)年8月、大給家は賀来神社を豊後国来村から江戸神田淡路町の本邸内に御分霊勧請した。この年の銘が入った手水鉢は、現在鵠沼の賀来神社にある。江戸時代の地図には、豊後府内藩邸内に「善神王宮」と記入されているものがある。また、1806(文化 3)年に造立された神田大給家江戸屋敷賀来神社の鳥居も鵠沼に移設されたが、最近建て替えられて廃棄された。明治維新によって大給姓になった松平家は、神田の藩邸を引き払い、本郷駒込千駄木坂下町に転居するが、この時賀来神社も遷座された。この屋敷は昭和に入って三木証券株式会社創業者の鈴木三樹之助に譲られた。大給家が千駄木を去った今も、旧大給邸に上る坂道は「大給坂」と呼ばれている。 1887(明治20)年、伯爵の爵位を受けた勝海舟が大給邸に挨拶に訪れたとき、賀来神社に参拝し、「海舟勝安房」の署名入り神社名を拝書した。この筆蹟は鵠沼に伝わり、近年、社殿造営の際以来、しきりに使用されるようになった。 賀来神社鵠沼に遷宮江之島電氣鐵道の開通によって、鵠沼海岸別荘地に別荘を構える人々も増え、日本初の別荘分譲地開発もようやく軌道に乗った。伊東將行は鵠沼駅前の一等地に鵠沼海岸別荘地の鎮守を祀ることを構想、大給邸内の賀来神社遷宮を大給子爵に交渉し、1905(明治38)年、鵠沼の賀来神社が誕生したのである。ところで、私が不思議に感じるのは、賀来神社境内の参道と社殿配置である。日本の神道の伝統では、境内の敷地形態の如何に関わらず、社殿を南面して建てるのが通例であった。これは、皇大神宮や新田宮を見るとよく判る。ところが賀来神社の参道入口は境内の最南部に位置し、そのまま直進した位置に社殿があれば自然に南面するのに、わざわざ参道を右へ曲げて、西向きの社殿を構えたのである。.後に祀られた鵠沼伏見稲荷の社殿も南面していない。
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