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第0154話 江之島電氣鐵道

江之島電氣鐵道開通まで

 江ノ電開通の事情については、青木 悠氏が「夢の中で走った江ノ電」と題して『鵠沼』第83号にまとめられている。
 以下、それを要約させて頂くことにする。
 1895(明治28)年8月3日、発起人若尾逸平らによって「鎌倉電車鐵道株式會社」が、横浜(黄金町)― 鎌倉 ― 七里ヶ浜 ― 片瀬(江の島) ― 藤沢の電氣鐵道プランを、続いて10月3日には、松平直己らによって「鎌倉鐵道株式會社」が横浜(官鉄の桜木町駅)から鎌倉経由で片瀬・藤沢に至る蒸気鐵道案の敷設免許申請を神奈川県知事経由で逓信大臣(現国土交通大臣)に提出した。
 続いて翌年になると、これとは別に福井直吉らによって、2月14日電氣鐵道敷設願が出された。福井直吉は大住郡豊田村(現平塚市)の人で、この計画は前二社とは違い、経過地は藤沢大坂町― 川口村及び腰越・津村 ―鎌倉とあって、今の江ノ電とほぽ同じ軌道である。
 これに対して、川口村会で山本庄太郎議員が先ずこの敷設に異議を表明、村議会の反対するところとなった。
 1896(明治29)年2月19日、福井直吉らにより出されていた電氣鐵道敷設願に対する内容の審査をするため、川口村村会が開かれた。県知事からの依頼によるものだった。議事録による山本庄太郎議員の発言は次のようなもので、村会は満場一致でこの発言に同意し、県知事に答申した。
 『藤沢―川口村―腰越(津村) 鎌倉間の鉄道敷設については、既に鎌倉鉄道会杜が創立され認可がでているので、それ以上電気鉄道を敷設する必要はない。当村に鉄道を敷設する事は、村会として希望するところであるが、今ある道路上へ電気鉄道を通すとなると、道がせまいから、交通上害を及ぼすことになり同意できない。』
 同年6月13日再び県知事から村会へ諮問があった。「道路がせまいので交通上危険ということだが、それならば、今の道路を幾尺迄広げれば危険なしと認めるのか、村会の意見を聞きたい」と。これに対し3日後の6月16日川口村会は知事に答申したが、この中で山本庄太郎議員は概ね次のように述べている。
 『本村地内仮定県道になっている江の島鎌倉往還は道幅が2間であるが近来年毎に交通がひんぱんになり、今でも道幅の狭いことを痛感している。ここに鉄道を敷設することは危険というより到底不可能のことである。この道幅を拡張して、そこに鉄道を敷くとすれば、沿道にある家屋はすべて移転しなければならず、その替地が無ければ居住に困り、不幸を招くおそれがある。替地とそこへの移転ができるようにならなければ本村の利益の上からやむをえずこの敷設には同意できない』
 村会は満場一致これに同意した。このため敷設申請は一度は却下されたが、発起人等の粘り強い再申請によりようやく1898(明治31)年12月20日敷設の仮免許がおりたのである。旧道江の島道を通さず、その代替案について地元との何らかの契約ができたのであろう。
 江ノ電をどこに通すかということは多くの人の関心を呼んだ。中でも当時交通の中心的役割を果たしていた300人いたという人力車夫たちは死活問題であるとし、絶対反対を唱え、妨害戦術に出たことはよく話題にされた。その結果、既存道路上を通らず大地主所有の道なき原野・松林を切り開き、曲がりくねって開通したといわれる。しかしそれ以上に沿道住民の立場で議論を重ね、県側と対応して行ったのが地元川口村の村議会であった。
 また後に江ノ電開設に一役買った山本庄太郎議員の存在と活動は特記すべきことだと考える。彼は電気鉄道の利便さには充分理解を持っていた。
〈江ノ電 会社創立〉
 上記の福井直吉らの流れをくんだ「江之島電氣鐵道株式會社」が1900(明治 33)年11月25日設立されるに至った。
 資本金は10万円とも20万円ともいわれていた。取締役に発起人だった福井直吉と川口村会議員(のち村長)で、はじめ旧道への敷設に反対した山本庄太郎らが同じ会杜に納まっているのは、注目すべきことである。

江之島電氣鐵道 藤澤-片瀬間開通

 路線工事は、1901(明治34)年6月起工、翌年9月1日藤沢大坂町―川口村片瀬間 3.4kmが営業開始となった。
 敷地の大部分は山本議員の所有地だったとされ、人力車夫の失業問題も江ノ電に再雇用の道が開かれたと伝えられ、反対は徐々に収まっていった。
 鵠沼村内における停留所は当初石上・川袋・藤ヶ谷・鵠沼であった。
 開業当日、一番電車は鵠沼停留所の手前で脱線し、負傷者が出る始末だった。復旧作業に手間取り、この日の内に全線開通ではなかったらしい。
 当時帝国大学3年生だった寺田寅彦は、初乗りマニアだったらしく、前日から藤沢駅前の「角若松」に泊まり込み、一番電車に乗り込んだ。しかし、脱線事故のため、やむなく徒歩で江の島に向かい、「金亀楼」に泊まってから徒歩で鎌倉に向かった。
 ここに江ノ電は日本で6番目、関東地方では3番目の電気鉄道となったのである。現在のように藤沢―鎌倉(当時、小町〕間全通は1910(明治43)10月30日のことであった。

江之島電氣鐵道年表
    
西暦 和暦 記                        事
1896 明治29 2 19 川口村村会、福井直吉らの電気鉄道敷設願に対する内容の審査→満場一致で同意
1896 明治29     江之島電氣鐵道 電気鉄道敷設許可申請
1897 明治30 12 20 電気鉄道敷設特許状、命令書交付
1900 明治33 11 25 江之島電氣鐵道株式会社設立総会開催(設立登記は12月4日)
1901 明治34 6   江之島電氣鐵道(藤沢-片瀬駅間)、敷設工事起工
1902 明治35 1 23 鵠沼村長より軌道用地を無償譲受
1902 明治35 8 2 江之島電氣鐵道、藤澤-片瀬間3.4km敷設、藤澤・石上・川袋・藤ヶ谷・鵠沼各停留所建設完了
1902 明治35 9 1 藤澤片瀬間営業運転開始 使用車両=4両(藤が谷付近のカーブで脱線、負傷者が出る)
1902 明治35 9 1 寺田寅彦、江之島電氣鐵道開通を期に江の島・鎌倉小旅行を企画するも事故で徒歩となる
1903 明治36 5 13 車両増備→6両となる
1903 明治36 6 20 片瀬 - 行合橋間開業
1903 明治36 7 17 行合橋 - 追揚間開業
1904 明治37 4 1 追揚 - 極楽寺間開業
1907 明治40 2   極楽寺トンネル竣工
1907 明治40 8 16 極楽寺 - 大町(現在廃止)間開業
1908 明治41 12   片瀬大源太に発電所設置 常時325KWを発電。225KWを鉄道に、100KWを家庭用に供給
1909 明治42 4   江之島電氣鐵道よりの電力供給を受け、鵠沼に電気が通じる
1910 明治43 10 30 藤澤-小町駅間、10.2km全線開通
1911 明治44 10 3 横濱電氣㈱と合併。→横濱電氣㈱江之島電氣鐵道部となる
E-Mail:

鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭

[参考文献]
  • 青木 悠:「夢の中で走った江ノ電」『鵠沼』第83号(2001)
 
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