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高等科併設1902(明治35)年度から、尋常鵠沼小學校に高等科が併設され、鵠沼村立尋常高等鵠沼小學校となった。この当時はまだ普門寺の境内に校舎があった。1908(明治41)年度から、町村合併により、藤澤町立尋常高等鵠沼小學校となるが、この頃からしっかりした学校の姿が完成したようで、同年9月に初代校長=小川礫三が発令されている。それまでは最上位の職員は「訓導」だったようだ。翌年ボヤを出し、そのせいではないらしいが校舎の増築が行われた。建築を請け負ったのは「林大工」こと浜野林蔵である。彼は皇大神宮の人形山車の半数を造っているから、相当な腕だったらしい。わずか1か月ほどで完成させている。どういう校舎か図面や写真を見たことはないが、1912(大正元)年9月に尋常3年に転校してきた今井達夫(後の作家)の記憶によれば、コの字型に校舎が中庭を囲み、運動場はなきに等しい状態だったという。 今井達夫が転校した頃、町会では鵠沼小學校新築等のための起債が提案され、普門寺の門前の水田が埋め立てられた。今回は建築を請け負ったのは「大勝」こと加藤徳太郎で、1913(大正2)年2月に起工し、6月には完成した。加藤徳太郎も皇大神宮の人形山車を造っている。浜野林蔵も加藤徳太郎も、別荘地開発が盛んになると、本拠地を海岸に移している。いずれも鵠沼の名大工として名が高かった。 6月20日には新校舎が完成し、夏休み前に普門寺境内から現在地へ引っ越しが行われた。先年103歳で他界された大東の關根佐一郎氏は、児童全員で机椅子を運んだ様子を、懐かしそうに語っておられた。 1923(大正12)年度から藤沢町立鵠沼尋常高等小學校と改称したが、その年の9月1日、関東大震災によって校舎は全壊した。再建完成は次年度末である。 1933(昭和8)年、鵠沼北部の縣立湘南中學校(現湘南高校)に隣接して藤澤高等小學校(現藤沢市立第一中学校)が開校し、町内3校の高等科が統合された。このことにより、藤澤町立鵠沼尋常小學校と改称することになった。 児童数の変遷第0111話で述べたように、鵠沼村の時代には若干の人口統計を調べることができるが、藤沢町に統合されてからは、鵠沼地区だけの人口統計を見つけることは難しい。残された方法は、市立鵠沼小学校の記録を調べることである。'鵠洋小学校が開校するまで、同校は鵠沼地区全域を学区としていた。当然地域の動態に関する調査記録もあって然るべきである。ところがこれは期待薄である。というのは、同校は1923(大正12)年の関東大震災と、1953(昭和28)年の火災によって、それ以前の記録をほとんど失っているからである。地域の動態どころか児童数や職員数すら残っていない期間がある。児童数に関しては、1918年から1932年までの藤沢町立鵠沼尋常高等小學校の児童数は連続してしっかり残っているので、グラフ化してみた。これで見る限り、劇的な変化はなさそうで、漸増しているとしかいえないが、1923(大正12)年の大震災と、1929(昭和4)年の小田急江ノ島線の開通による変化を読み取ることができる。1926、1927年あたりの若干の減については、理由が思い当たらない。 この学校は鵠沼全地域を学区としていたが、必ずしも全地域の児童が通っていたわけではない。ことに鵠沼村立尋常高等鵠沼小學校となった1902(明治35)年には、江之島電氣鐵道の藤澤―片瀬(江ノ島)間が開通し、鵠沼東部の児童は尋常高等藤澤小學校に通うケースが多かったらしい。これは1941(昭和16)年になってのことだが、阿部 昭(後の小説家)は西海岸から第一國民學校(現藤沢小学校)に通った。『麗子像』のモデル岸田麗子は鎌倉の小学校に江ノ電で通ったし、長谷川龍三(後の長谷川路可)は東京の暁星学校の寄宿舎に入っていた。別荘地時代は児童の数も少なく、第一、通うのにかなりの道のりだった。震災後、定住者が増えると、旧別荘地の児童数も増えたが、農村部とは文化が違った。文化の基本は言語である。東京の山の手あたりから転居してきた親とすれば、子どもが学校で覚えてくる「べえべえ言葉」には我慢できかねた。学校内では「別荘もん」の子どもは多勢に無勢でいじめの対象になった。
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