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第0155話 慈教庵創建

颯田本眞尼(さったほんしんに)

 鵠沼公民館から海岸方面に向かった右側(下鰯5250。現鵠沼海岸3-12)に、細川家(旧肥後熊本藩主ではない。ときどき間違える人がいるので注意!)の別邸があった。1903(明治36)年の9月、浄土宗の尼僧、颯田本眞(当時59歳)によって「慈教庵」という浄土宗の説教所が創建された。目的は布教拡張並びに日清戦争戦死病没者供養のためとされる。
 颯田本眞尼は極めて高潔かつ行動的な人物で、崇敬者が多かった。本眞尼の人物像については次項で紹介する予定である。
 本眞尼を敬慕する人たちが、本眞尼に関東へきて戴いて念仏の教えを広めてくれるように懇願した。本眞尼は自分にはその力もなくかつそんな暇もないからと辞退したが、熱心な信者達はどうしても本眞尼を関東へ迎えたいと思った。その中の一人である細川糸子氏が、鵠沼の別荘の一隅500坪を供養するから、そこにお寺を建ててほしいと願った。本眞尼は固辞して承けなかったが、細川氏が何度も東京から三河まで頼みにくるので、心うごき、細川氏と共に鵠沼へ赴いた。鵠沼へ着くと、その朝のあたりの景色が10年ほど前に夢に見た景色 とよく似ついていたので、ここは有縁の地であると感じて、新しく一寺を建立する決意を固めたという。

慈教庵

 細川別邸内に建てられた慈教庵は、写真などを見たことがないが、前庭には蓮池を擁していたらしい。本堂は屋根の勾配は比較的緩く、一見して仏堂とは見えない瀟洒なたたずまいだったという。
 寺院というよりは、「説教所」として構えられたので、住職の颯田本眞尼のほかに常に修行尼がいた。富士 山(たかし)医師によれば、年少の修行尼は「ネンショ」と呼ばれていたらしい。
 本眞尼を慕って、多くの人々が訪れた。
 1913(大正2)年夏、雑誌記者の中平文子(1888-1966)が慈教庵に潜入ルポを試みた。
 また、1919(大正8)年末には後の小説家、網野 菊(1900-1978)が、卒業論文制作のため、友人の河崎なつ子と冬休みの2週間を鵠沼慈教庵に滞在したことが、後に『海辺』という作品に書かれている。
 その中から慈教庵の様子が描かれている部分を抜粋してみよう。
 「寺の入口には、真直な松の木が数本立っていて門の代りをしている。極く低い、形ぱかりの石段があり、石段の脇には「不許葷酒入山門」と彫った三尺程の高さの石が立っている。
 庭はガランとして少し殺風景な感じで、庫裡の前の一本の白梅の花だけが目立った。
 本堂にはもう雨戸が閉まり、本堂と向かい合って、渡廊下でつながれた庫裡でも、階下は戸締りがしてあり、唯二階の一間にだけ、陣子に薄赤い電燈の光がうつっていた。
 広い土間に直ぐ接して八畳ぱかりの座敷があり、その座敷とも一つ隣りの座敷とに沿って廊下が流れ、その端が鍵の手に折れて渡廊下になり、本堂に続いているのであった。土間の突き当たりは台所と見えて、 そこの暗がりから先刻の若い尼が再ぴ出て来て、二人の荷を座敷へ上げる手伝いをした。
 二階は表の方が二間で、其の二た間の中の、 梯子段に遠い方の部屋に、丁度夕食を終えた四人の女が、電燈の真下にお膳を囲んで話をしていた。春子達の足音をきくと四人は話をやめて一斉に梯子段の方へ視線を向けた。その四人の中の一人の、若い女学生風の女の掛けた縁なし眼鏡が、圧迫する様な印象を瞬間悌子に与えた。悌子は益々気鬱を感じた。」というように、宿泊棟は二階屋だったようだ。
 慈教庵は鵠沼海岸唯一の仏教寺院だったから、地元の葬儀が行われる機会も多かったようだ。
 1916(大正5)年の長谷川ゑいも、1920(大正9)年の伊東將行も、慈教庵で葬儀が行われた。長谷川家はここを菩提寺にし、伊東将行之墓碑もあって、のちに本眞寺となってからも、そこに移されているが、第0119話にも述べたように、彼は日蓮宗信徒で、正式の墓は青山墓地にあるという。
 富士 山(たかし)医師によれば、「何宗でもかまわぬ希望の方は来て墓をたてなさい。ただし、日蓮宗だけはおことわりといわれた。他宗を排斥する日蓮のやり方が気に入らないのだらう。」とあるが、本眞尼は將行が日蓮宗だということを知っておられたのだろうか。

 1923(大正12)年9月1日の大正関東地震のため、慈教庵は倒壊し、津波の引き波で流失した5軒の一つとなった。
 そのことによって、旧柳原5843。現鵠沼海岸7-1に翌年1月に仮本堂が建てられたといわれているが、藤吉慈海:『颯田本真尼の生涯』によれば、
 「本堂の竣工が成って間も無く、大正12年9月1日の関東大震災で、その本堂も丸潰れになってしまった。老尼はそのとき丁度廊下を通ってい られたが、あの最初の衝撃で庭先きへはねとばされてしまった。当時七十九歳の老尼は不思議に傷一つおわず、すぐさま本堂へゆかれ、潰れた屋根をはいでみられると、御本尊さまは天井板を破って何の変わりもなく安祥としてお坐りになっていた。老尼は感激のあまり合掌礼拝して、早速本堂の再建にとりかかり、翌年一月には場所をすこし移転して現在の本真寺の位置に仮本堂の再建を完了した。」とある。
 颯田本眞尼は1928(昭和3)年8月8日に入寂されたが、現在の本堂が完成したのは1935(昭和10)年4月になってのことである。その後、颯田本眞尼に因んで、慈教庵から夢想山本眞寺と改称されるが、それがどの時点からかは調査していない。

慈教庵年表
西暦 和暦 記                        事
1845 弘化 2 11 28 堀田本眞尼、愛知県幡豆那吉田町の場田清左衛門の長女として誕生。幼名「リツ」
1903 明治36 9   下鰯の細川家別邸内に慈教庵建立。開山は颯田本眞尼(1845-1928)
1913 大正 2   雑誌記者=中平文子(1888-1966)、慈教庵に潜入ルポを試みる
1916 大正 5 1 7 東屋の初代女将=長谷川ゑい、腸閉塞のため鎌倉の病院で没。慈教庵に葬る
1919 大正 8 12   網野 菊(1900-1978)、卒業論文制作のため、河崎なつ子と冬休みの2週間を鵠沼慈教庵に滞在
1920 大正 9 7 29 伊東將行、脳溢血で没。享年75。慈教庵で葬儀、墓碑も建つが、正式の墓所は青山墓地
1923 大正12 9 1 慈教庵、大正関東地震のため倒壊。津波の引き波で流失。
1924 大正13 1   颯田本眞尼、関東大震災で倒壊した慈教庵を現在の本真寺の位置に移し、仮本堂を建立
1928 昭和 3 8 8 慈教庵開山=颯田本眞尼(1845-1928)、入寂 享年84
1935 昭和10 4 慈教庵(後に本真寺)本堂完成
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鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭

[参考文献]
  • 富士 山:「鵠沼の尼寺さん」『鵠沼』33号(1986)
  • 塩沢 務:「颯田本真尼と鵠沼慈教庵」『鵠沼』44号(1988)
  • 網野 菊:『海辺』(1988)
  • 藤吉慈海:『颯田本真尼の生涯』春秋社(1991)
 
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