HOME 政治・軍事 経済・産業 自然・災害 文化・芸術 教育・宗教 社会・開発


第0139話 千石船難破

三河の千石船が難破

 第0102話で「溺死諸精霊」碑について、加藤徳右衛門編著『現在の藤澤』に「1872(明治 5)年7月27日、「暴風来襲し、鵠沼沖で難破船4艘、溺死者10人」とある事件との関連性を、グレゴリオ暦導入時期との関係を含めて類推しておいた。ところが、高木和男著『鵠沼海岸百年の歴史』には「これは明治二十九年七月二十日(一八九六丙申)に三河の千石船が大暴風に遭遇して、難破し、全員溺死したことを弔ったものであるという。」 とある。
 この碑面右側の年号記載部分は風化が厳しく判読が困難だが、「明治」と「五」と「申歳」ははっきりしている。「申歳」の上の字は「壬」とどうやら読み取れ、「丙」とは読めない。丙申なら明治29年だが、壬申は明治5年だ。
 従って、明治の申年に鵠沼沖で海難事故があったのだが、この碑は三河の千石船遭難の溺者供養のものではなさそうだというのが私の結論である。しかし、三河の千石船遭難事故の方が印象に残る大事故だったのだろう。

龍宮橋

 この碑は以前はもう少し北寄りにあったらしい。さらに北へ進むと龍宮橋を渡る。この橋は鵠沼本村の人たちが地曳き網を引くために「浜道」を辿ってきて、いよいよ鰯干場(やしば)の漁場に到着するところにあたる。昭和初期までの写真を見ると、欄干のない木橋、いわゆる「どんどん橋」で、相当おっかない橋だった。
 欄干がついたのは、おそらく1934(昭和9)年の引地川改修の時と思われる。戦後になってからは、1958(昭和33)年6月、1970(昭和45)年3月、1982(昭和57)年に架け替え工事が行われている。最後の工事の時に現在のコンクリート橋になったのであろう。
 橋の脇には八大龍王の祠が祀ってあり、漁師たちはここで大漁の祈願をした。「龍宮橋」の名はそれに由来するに違いない。橋の名がいつ命名されたのかは判らない。
 高木和男氏によれば、「辻堂の漁協の竜王社が戦時中に海軍のカタパルト演習で失われたので、両漁協の合併を機に、鵠沼のものを辻堂に移し」たのだという。
 現在、この龍神様は辻堂東海岸四丁目の浜見山交番前交差点に面した藤沢漁業協同組合脇に移されている。
 両漁協の合併は、1940(昭和15)年12月のことである。(私の生まれた頃ではないか!)私は鵠沼にあった龍神様を知るわけはないが、いろいろな人の話を総合すると、辻堂移転は戦後になってからだという。
E-Mail:

鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭

[参考文献]
  • 高木和男:『鵠沼海岸百年の歴史』(1981)
 
BACK TOP NEXT