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溺死諸精霊供養塔と海難死者墓碑竜宮橋から国道134号に出る角に「溺死諸精霊」と彫られた供養塔(右写真)がある。台石に「鵠沼村」とあるから、明治時代以前のものと知れる。 正面の左側の文字は「七月二十二日」とはっきり読めるが、右側の文字は風化で剥落していて判読困難である。「明治〓五壬申歳」と、どうやら読み取れる。「〓」の部分が剥落しているのだが、どう見ても1字分の空きである。ところが、明治時代の壬申の年は1872(明治 5)年である。 『藤沢市文化財調査報告書』第5集によれば、万福寺墓地の海難死者墓碑(相州三浦郡菊名村法昌寺住職ら6名)が1872(明治 5)年7月23日に造立されたとある。 万福寺の墓地はかなり広いので、私はこれがどこにあるかを見つけていない。というか、見つけようとしていない。 この二つの碑は、前者が1872(明治 5)年のものだとすれば、1日違いで建てられ、いずれも海難死者のためのものである。これは、同じ事件の死者なのだろうか。いかなる事件だったのだろうか。 1933(昭和 8)年2月1日に刊行された加藤徳右衛門編著『現在の藤澤』には、1872(明治 5)年7月27日、「暴風来襲し、鵠沼沖で難破船4艘、溺死者10人」とある。7月27日というと、両碑が建った後の事件ということになる。しかし、その前にはそれらしい事件は見当たらない。 グレゴリオ暦採用グレゴリオ暦は、日本では1872(明治5)年に採用され、明治5年12月2日の翌日を明治6年1月1日(グレゴリオ暦の1873年1月1日)とした。両碑に彫り込まれた期日は、この段階では旧暦であることは間違いない。ところが1933(昭和 8)年に刊行された『現在の藤澤』において編著者の加藤徳右衛門は、前後の整合性を図ってグレゴリオ暦に換算した期日を記述したのではあるまいか。 明治5年12月2日の翌日を明治6年(グレゴリオ暦の)1月1日としたところを見ると、この年の新旧両暦のずれは、1か月弱だったと思われる。とすると、グレゴリオ暦の7月27日は旧暦では6月25日あたりで、7月22〜23日に碑を建ててもさほど不思議ではない。 というのが、私の推理なのだが、如何だろうか。
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