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第0137話 若尾製糸場

生糸貿易と養蚕業

 幕末の開港以来、横浜港の最大の輸出品は生糸だった。関東一円から甲州、信州の盆地は水田適地は少なく、排水の良い洪積台地や扇状地が大部分を占めている。こういう所に適するのは果樹類やクワなどの樹木作物である。かくして養蚕は関東甲信の主要産業に発展した。
 神奈川県でも相模野台地を中心とする高座郡一帯では古来養蚕が盛んだった。藤沢市打戻にある延喜式内社の宇都母知(うつもち)神社には、天照大神(あまてらすおおみかみ)の他に稚産靈神(わくむすびのかみ)・若日下部命(わかくさかべのみこと)という養蚕を司る二柱の神々が祀られている。
 港ヨコハマに向かう「長後街道」と、機業中心地=八王子(当時は神奈川県内だった)に続く「八王子(滝山)街道」の交差点にあたる長後は、生糸貿易と養蚕業を結ぶ拠点として賑わいを見せ、周辺には小規模な製糸工場が散在した。相模野台地南部の生糸は、馬の背や牛車で長後街道を港ヨコハマに向かった。長後街道は「神奈川のシルクロード」として機能するのである。
 鵠沼村などの湘南砂丘地帯にも養蚕業が見られるようになるが、洪積台地上のように一面の桑園が展開するような光景にはならなかったようだ。現在でも古い農家では蚕室のある中二階を持つものが若干残っている。

盛進社若尾製糸場

 ヨコハマの生糸貿易で財をなしたのが「甲州財閥」であり、その中心を担ったのが若尾家だった。
 若尾幾造は1829(文政12)年ごろ、甲州中巨摩郡在家塚村(現在の山梨県中巨摩郡白根町)二代目若尾林右衛門の三男として生れた。兄逸平の代理人として横浜に出て生糸・水晶などの売込みや綿花・砂糖の引取などを手伝ったが、1876(明治9)年に独立した。
 幾造は1892(明治25)年、製糸業を行っていた長後街道沿いの鎌倉郡中和田村(現在の横浜市泉区)の持田製糸場の持田角左衛門と協力して、生糸を共同で出荷するための販売組合「盛進社」を設立した。
 鉄道が開通すると、1893(明治26)年藤沢大富町に「諏訪製糸工場」を、1895(明治28)年6月に鵠沼村石上に盛進社「若尾製糸場」を建設した。この工場は釜数=200、現藤沢市域では最大の工場であり、鵠沼村で最初の本格的近代工業工場の進出だった。
 藤沢・鵠沼進出の理由は、輸送手段が鉄道になったことが大きいが、江之島電氣鐵道の建設が予定されており、工場動力を蒸気機関から電気に切り替えることを目論んだことも重要である。江之島電氣鐵道が片瀬大源太に発電所を設置したのは1908(明治41)年になってからであり、若尾製糸場が電力を動力にしたとしても短期間だった。しかし、幾造は江之島電氣鐵道の有力株主としても活動している。
 さらに、1903(明治36)年には埼玉県児玉郡に、直営の「若尾製糸」と山梨県中巨摩郡に「草薙合資」を、1904(明治37)年6月には高座郡明治村(現藤沢市)に「若尾第二製糸場」を創設し、製糸運営を行った。
 この盛進社は1901(明治34)年には横浜出荷荷主の中で第10位に入るまで成長した。しかし1911(明治44)年解散してしまった。
 初代幾造は1896(明治29)年10月10日、68才で没。長男林平が40才の時に家業を引き継ぎ、二代目若尾幾造を名乗った。日本鉄道重役、若尾銀行頭取に就任し、生糸売込商として三代続いた。
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鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭

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