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第0136話 日清戦争と鵠沼

鵠沼館が日清戦争療養施設に

 1894(明治27)年から翌年にかけ、朝鮮(李氏朝鮮)を巡って起こった日本と清(中国)との戦争=日清戦争は、明治政府の起こした最初の対外戦争であった。 欧米列強の指導のもと、「富国強兵策」で近代的な軍備をもつ日本軍は、朝鮮から満州(今の中国東北区)に進出し、各地で勝利をおさめた。1895(明治28)年、清は降伏し、下関で講和会議を開いて下関条約を結んだ。これによって、清は朝鮮の独立を認め、遼東(リャオトン)半島・台湾などを日本に譲り、多額の賠償金を支払うことになった。 何しろ世界最大の人口を持つ国と戦って勝ったのだから、「神国日本」は妙な自信をつけ、軍国主義に突き進むことになる。
 日清戦争では、戦死者は1,415人だったが、傷病死者はマラリア4,000人、脚気8,000人も出た。病気を背負って復員した兵士は相当数に上ったといわれる。
 1895(明治28)年1月17日の『讀賣新聞』に、「東京預備病院長松島玄景氏ハ一昨十五日出發所属杉江一等軍吏を随へb奈川縣鵠沼地方へ出張せしが右ハ戰地よりの送還患者にして轉地療養を要するものの為に療養所設置踏査の用向にて遂に鵠沼館を利用する事となれりといふ」と日清戦争による傷病兵の転地療養所に鵠沼の「鵠沼館」を利用することを報じ、同年4月4日の『讀賣新聞』には陸軍の患者を迎えた鵠沼の有志等は、「來る十六日を以て同館前に數十本の烟花を打揚げ且撃劍會を催すと聞く」と報じている。 

慈教庵と日清戦争

 現在、小田急線カーブのところにある浄土宗本眞寺は、以前は、現在の鵠沼公民館の先にあった細川家別邸に開山した「慈教庵」という尼寺であった。
 開いたのは颯田本眞という高名な尼僧で、1903(明治36)年秋(9月説と11月説がある)のことであった。開山の動機は「日清戦争戦死病没者のため相模国高座郡鵠沼村に浄土宗説教所を建立し慈教庵と号した」と伝えられている。
 颯田本眞と慈教庵については別項を立てる。   
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鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭

[参考文献]
  • 藤吉慈海:『颯田本真尼の生涯』
 
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