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第0123話 官営鐵道開通

日本の鉄道導入期

 明治新政府は発足直後に官営での鉄道建設を決定し、英国から人材・技術・機材を導入して1872(明治5)年、新橋(汐留)―橫濱(桜木町)間に最初の路線を敷設した。
 続いて阪神間の鉄道建設が始まり、北海道が続いた。
 東京と関西を結ぶ路線は、当初東海道ルートが企画されたが、国防上の理由から陸軍省が反対し、中山道ルートに変更されたという。しかし、山間部が多いこのルートは建設に困難が予想され、結局東海道ルートが復活した。
 この東海道ルートも、既得権を持つ宿場町の反対が強く、既存の市街地から離れた場所に停車場を設ける例が多かった。藤澤宿も鵠沼村との境界に近い桃畑の中に藤澤停車場が置かれた。
 しかし、このルートになった理由は、一つは地形的な要素が強く働いたと思われる。大船からほぼ柏尾川に沿ってルートを採ってきたので、藤澤宿近くに行くには大きく屈曲する必要があり、そのまま砂丘地帯を直進する方が建設しやすかったからである。もう一つは藤澤停車場が置かれたのは、確かに町外れの無人地帯だったが、鎌倉道と江之島道の交差点という交通の要点でもあったからである。
 この地点に停車場が置かれたことは、鵠沼村にとっては後々有利に働いた。

鉄道開通と藤澤停車場

 1882(明治15)年測図の1:20,000迅速図には現在の東海道本線の位置に予定線が記入されている。これが復刻の際に加えられたものでなければ、この段階で鉄道路線は決まっていたのであろう。このルートは鵠沼村本村の中央部をほぼ東西に直線的に通過しており、宿庭、清水両集落を南北に分断した。
 藤澤停車場の乗降口は、当初は北口すなわち藤澤宿側のみだった。南口が開かれるのは、1902(明治35)年の江之島電氣鐵道開通によってである。従って、それまでは南口側の鵠沼村の都市開発はあまり見られなかった。
 鉄道開通は鵠沼村にとって大きなエポックをもたらした。エポックというとプラス面が強調されがちだが、マイナス面も考えておく必要があろう。鉄道開通は鵠沼村民にどのような変化をもたらしたのだろう。
  • 農業の商業化 それまで基本的には自給的農業地帯だった鵠沼村に商品作物が栽培されるようになったのは明治初期からだといわれる。代表的なものはサツマイモとモモである。海岸平野の砂地は一般的に農業適地とはいいにくい。砂質土壌と乾燥、塩害に耐える農作物は限られる。サツマイモとモモは江戸の近郊農村として商業的な農業の先進地だった橘郡(川崎市)から導入されたといわれる。
  • 特産物 鉄道が開通した頃、ショウロやハマボウフウを駅頭で売る光景が見られたという。これらは、参勤交代が行われた時代にも特産物として知られていたようだが、生鮮食料品が土産物になるのは、鉄道時代に入ってからであろう。
  • 現金収入 鉄道開通は、用地買収や工事のための労力などで農業収入以外の臨時収入を農民にもたらした。別荘地が開かれると、女中、別荘番や植木職人などで別荘に出入りする人々も出てくるが、明治時代はさして多くなかったであろう。本格化するのは大正に入った頃からである。
  • 海岸部の開発 海水浴場の開設と旅館の開業から海岸部の開発がスタートする。別荘地開発も進められるが、本格化するのは江之島電氣鐵道開通以後のことである。それまでは藤澤停車場の北口から徒歩または人力車で「一本松踏切」または「学校前踏切」から、本道、浜道を辿るルートが用いられていた。沿道の農家には、海水浴客のための家作を建てるものもいたという。
  • 京浜地区との交流 鉄道開通当初は運賃もかなり高額だったので、通勤、通学に鉄道を用いることができたのは限られた階層だった。富農層の中には、嫁入り前の修行として東京の名家に女中や乳母として娘を奉公に出すケースも見られたらしい。
  • 祭礼の発展 第0118話に記したように、皇大神宮の祭礼に人形山車が見られるようになるのは、鉄道開通前後からである。しかし、鉄道路線より南側の集落にとっては、踏切を渡るのは難事業だった。山車が渡れる踏切は学校前踏切に限られていたからである。これは人力車にとっても同じだった。堀川と仲東の山車は、踏切横断で転倒し、造り替えられたという。
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鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭

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