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第0119話 伊東將行

海岸発展の功労者

 第0020話からこれまで100話ほどの話題は、鵠沼地区の北西部が主な舞台だった。南東部は茫漠たる砂原の無人地帯だったからである。
 1887(明治20)年の鉄道開通を機に、その前後から海岸部の開発が活発化する。その中心人物の一人が伊東將行であった。
 江ノ電鵠沼駅前の賀来神社境内に「鵠沼海岸別荘地開発記念碑」という鵠沼地区最大の石碑が建っている。これは、記念碑といいながら、実態は伊東將行顕彰碑といえる。また、本眞寺境内には「鵠沼海岸開拓者・伊東将行之墓」という、これも鵠沼地区最大の墓碑が建っている(彼は日蓮宗信徒で、正式の墓は青山墓地にあるという)。

伊東將行とは

 伊東將行とはどういう人物か。極めて謎の多い人物である。
 そもそも名前の読みだが、「しょうこう」という人が多いが「まさゆき」とルビが振られた書物もある。ご子孫は複数鵠沼にお住まいだが、「しょうこう」と呼んでおられるので、以後そのように読まれたい。
 その出自についても諸説ある。「1847(弘化 4)年9月9日、紀州藩士伊東左衛門の男として江戸藩邸で誕生」というのがもっともらしい。「鵠沼海岸別荘地開発記念碑」には「武州川越の人」とあり、「上野の彰義隊の生き残り」という説もある。いずれにせよ士族、それも幕臣といかなくても徳川よりの武士だったらしい。
 鵠沼とは縁もゆかりもない人物だったと思われる。それが1886(明治19)年、ふらりと鵠沼に現れて住み着き、鵠沼海岸の開発を目論んでいた地元有志の仲間入りをして、たちまち頭角を現し、いつの間にか鵠沼海岸開発の中心人物になるのである。
 その業績については、それぞれ別項を立てて説明を加える予定だが、主なものを列挙すると次の通りである。
  • 今福・三觜・金子・田中・齋藤ら地元有力者と「武相倶楽部」を創設、別荘地開発に着手
  • 三觜直吉と共に開業したばかりの「鵠沼館」に職を得る
  • 中野武営・中島行孝・伊藤幹一らと鵠沼海岸別荘地の開発に取り組む
  • 行遊客の誘致策として貸別荘風の東屋建設
  • 木下利吉・米三郎、大給子爵所有の約25万坪を別荘地として開発を目論む
  • 旅館東屋を新築し、初代女将として神楽坂の料亭「吉熊」の女中頭=長谷川ゑいをスカウトする
  • 埼玉県吹上出身の医師=福田良平(1877-1940)を招聘し、東屋に隣接する「鵠沼海浜病院」を開く
  • 大給子爵と協議し、江戸屋敷に祀られていた「賀来神社」を江ノ電鵠沼駅前に再度遷座し、鵠沼海岸別荘地の鎮守とする
伊東將行鵠沼関係年譜    
西暦 和暦 記                        事
1847 弘化 4 9 9 伊東將行、紀州藩士伊東左衛門の男として江戸藩邸で誕生(川越の人という異説あり)
1869 明治 2 3 4 後の東屋初代女將=長谷川ゑい、金沢藩士長谷川信守の三女として東京牛込で誕生
1886 明治19     伊東將行、埼玉県川越から居を鵠沼に移す
1887 明治20     伊東將行、地元有力者と「武相倶楽部」を創設、別荘地開発に着手
1887 明治20     三觜小三郎・川上九兵衛ら、鵠沼館開業。伊東將行・三觜直吉、同旅館に職を得る
1889 明治22     伊東將行、中野武営・中島行孝・伊藤幹一らと鵠沼海岸別荘地の開発に取り組む
1892 明治25 11   伊東將行、行遊客の誘致策として貸別荘風の東屋建設
1892 明治25     伊東將行・木下利吉・米三郎、大給子爵所有の約25万坪を別荘地として開発を目論む
1897 明治30     旅館東屋新築。初代女將=長谷川ゑい、この頃経営に参加か
1897 明治30     ~1902頃、大給子爵、木下米三郎に測量・区割りさせて大地図作成
1898 明治31 8 20 『風俗画報』に、壮大な東屋のイラスト掲載。鵠沼は「皆茅屋にして閑雅愛すぺし」
1905 明治38 6 11 横浜貿易新報、東屋旅館の紹介記事(鵠沼海岸の旅館は東屋のみになる)
1905 明治38 8   伊東將行が大給家と賀来神社の鵠沼遷宮を協議
1906 明治39 10 9 大給近孝・伊東將行、賀来神社を鵠沼村下藤が谷の当地に再度遷座し、寄付登記
1906 明治39 10 25 長谷川欽一、本籍を東京から鵠沼村6642に移す
1906 明治39 12 30 長谷川ゑい、戸主=長谷川欽一から分家。本籍は鵠沼村6642と変わらず
1906 明治39     埼玉県吹上出身の医師=福田良平、伊東將行の招聘で鵠沼6668に鵠沼海浜病院を開く
1909 明治42 3   医師=福田良平、長谷川ゑいの妹=蝶と結婚
1912 明治45 7   鵠沼海水浴場準備、伊東將行らが尽力、旅館「あづまや」などを増築
1912 明治45     大橋良平、『現在の鎌倉』(通友社)で鵠沼海岸別荘地の発展について記述
1916 大正 5 1 7 東屋初代女將=長谷川ゑい、腸閉塞のため鎌倉の病院で没。姉=たか、2代目女將となる
1917 大正 6 1 16 陸軍航空大隊第5期練習將校、3機で鵠沼汐入の洲に着陸。伊東將行らが歓迎会
1920 大正 9 7 29 伊東將行、脳溢血で没。享年75。慈教庵で葬儀、墓碑も建つが、正式の墓所は青山墓地
1920 大正 9 12   伊東將行の功績を顕彰する鵠沼海岸別荘地開発碑が 賀来神社境内に建設される
1923 大正12 9 1 鵠沼海岸6642東屋倒壊津波浸水[現在の藤澤]
1924 大正13     東屋、当時としては数少ない硬球のテニスコートを2面、敷地の一角に造る
1924 大正13   現在杉沢邸となっている「東屋の離れ」、建築
1924 大正13     東屋・中屋、再建して営業
1927 昭和 2     伊東將行の孫=右近一夫、東京日本橋から東屋別荘「イ-1号」に転居
1933 昭和 8     伊東將行の末娘=政子夫妻、東屋西方に隣接して「鵠沼ホテル」を開く
1936 昭和11 8 27 鈴木鎌吉(東屋の男衆、伊東將行を鵠沼に導いたとされる)、没
1938 昭和13 9 7 東屋2代目女將=長谷川たか、没。墓所:本眞寺
1939 昭和14 9 11 長谷川欽一、東屋を廃業
1939 昭和14 9 12 『東京日々新聞』、「突如廃業の声明」「鵠沼名物”文士宿”」と東屋の廃業を報道
1950 昭和25     伊東將行の孫で養子の伊東將治、鵠沼ホテル跡地に割烹料亭「東家」を開く
1984 昭和59     東屋貸別荘「イ-2号」、改築
1985 昭和60 6 24 元東屋主人=長谷川欽一、没 享年85
1995 平成 7 12 31 割烹料亭「東家」、廃業
1997 平成 9 11 25 高三啓輔(鵠沼を語る会会員)、『鵠沼・東屋旅館物語』刊行
1997 平成 9     伊東將行の孫=右近一夫、没
1998 平成10   小説家=佐江衆一(財団法人「神奈川文学振興会』理事)、藤沢市へ「東屋」記念碑の設置を提唱
1998 平成10 12 19 高三啓輔著『鵠沼・東屋旅館物語』、第12回大衆文学研究賞を受賞
1998 平成10     伊東將行の2番目の孫にあたり將行の養子となった伊東將治(もと割烹料亭東家経営者)、没
1999 平成11 3 23 鵠沼を語る会、藤沢市長宛に東屋記念碑設置の要望書を提出
2000 平成12 4 11 「東屋記念碑設置検討委員会」、具体的作業に入る
2001 平成13 3 22 「東屋記念碑」設置記念式典(鵠沼公民館)→除幕式(鵠沼海岸2-8-26)
2001 平成13 3 31 鵠沼を語る会、会誌『鵠沼』82号刊行(「東屋記念碑」設置記念特集号)
2005 平成17 8 5 東屋旅館海浜口門柱、鵠沼公民館裏庭に移設。跡地にプレート設置
2006 平成18 8 23 カフェ=シェ・モア(伊東將行縁の右近家経営)、閉店
E-Mail:

鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭

[参考文献]
  • 高三啓輔:『鵠沼・東屋旅館物語』(1997)
 
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