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第0110話 第87番小學

藤沢最古(?)の証書

 これは、1877(明治10)年9月16日に鵠沼学校が10歳6か月の女児、關根ヨシさん(宿庭)に発した証書である。
 当時は日本の教育制度がスタートして5年目、まだまだ試行錯誤段階だった。
 明治5年に普門寺の物置で開校した《鵠沼学舎》は、明治10年5月に境内に校舎を建て、《第87番小学鵠沼学校》と改称した。ヨシさんは、おそらくその最初の入学児童だった。
 この段階での教育制度は、下等小学4年と上等小学4年の8年制で、この制度は明治19年4月から尋常4年高等4年となるが、尋常小学校4年が義務教育と確定するのは、1900(明治33)年のことである。
 この頃は半年ごとに級が上がる仕組みで、8級から始まって1級が終われば下等小学を卒業した。「卒業候事」とあるが、これは第1段階を終了した修業証書である。
 鵠沼郷土資料展示室で展示の後、藤沢市教育文化センターアーカイヴスに収蔵された。

用語解説

■神奈川縣=当時は現在の東京都三多摩地区も含んでいた。
■平民=江戸時代の「士農工商」は廃されたが、明治時代は華族・士族・平民などの身分呼称があった。
■十年六ケ月=10歳6か月。この頃は何歳に入学するかは確定していなかった。
■下等小學=小学(現在の小中学校段階)は、当初下等小学4年・上等小学4年に分かれていた。
■第八級=小学は半年ごとに級が定められており、従って下等小学4年には第8級から第1級まで8段階の級があった。成績優良者には「飛び級」もあったらしい。
■卒業=これは現在のいわゆる「卒業」ではなく、進級試験に合格したことを指すと思われる。
■第一大學區=大学を設置する地域区画で、全国に8つ(明治6年7つになる)置かれた。第一は関東地方と山梨・静岡
■第九中学區=各大学区は32の中学区に分けられ、一つの中学を置く計画が立てられた。この第9中学区が神奈川県のどの範囲を指すかは未調査だが、おそらく相模湾岸一帯を指し、小田原に中学が置かれる予定だったと思われる。
■第八十七番小學=各中学区は210の小学区に分けられ、一つの小学を置く計画が立てられた。
■鵠沼學校=明治10年5月22日鵠沼学舎から改称。

第87番小學鵠沼學校年表
    
西暦 和暦 記                        事
1877 明治10 5 22 鵠沼学舎、校舎を新築。第87番小学鵠沼学校と改称。訓導久木元寿、助教3、生徒133名
1886 明治19 4 10 小学校令公布尋常4年、高等4年となる[大和史]
1890 明治23 10 鵠沼村の役場費=317円37銭。教育費=217円05銭
1892 明治25 3 19 鵠沼学校、尋常鵠沼小学校と改称(勅令第215号改正小学校令)
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鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭

[参考文献]
 
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