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県下に暴風雨来襲明治時代は暴風雨による災害が多く記録されている。鵠沼村における具体的な被災記録は少ないが、この時代までは境川(片瀬川)、引地川両河川とも砂丘地帯を自由蛇行していたから、地図が発行される毎に流路が変わるほどだった。 下の年表に見られるように、1869(明治 2)年、1872(明治 5)年、1873(明治 6)年、1875(明治 8)年、1876(明治 9)年、1877(明治10)年、1878(明治11)年、1879(明治12)年、1880(明治13)年(2回)、1881(明治14)年、1884(明治17)年と、毎年のように暴風雨に襲われ、その後はなぜか間隔が開いて、1896(明治29)年、1897(明治30)年、1899(明治32)年、1901(明治34年、1904(明治37)年、1905(明治38)年、1906(明治39)年、1907(明治40)年、1910(明治43)年、1912(明治45)年と、また連続している。 海難事故明治時代には、鵠沼沖で2回の海難事故が起きている。先ず、1872(明治 5)年、鵠沼沖で4艘が難破し、溺死者10人(うち6人が相州三浦郡菊名村法昌寺住職ららしい)を出したことは、第0102話で紹介したところである。 次いで1896(明治29)年7月20日、鵠沼海岸沖で三河の千石船が暴風により難破した事件である。この遭難者の供養のため、竜宮橋の近くに龍王社を祀ったが、現在は辻堂浜見山の漁協の脇に移されている。 コレラ禍コレラは、日本では1858(安政5)年に大流行し、藤澤宿とその周辺でも149人の死者が出たと記録に残っている。明治時代になってからは、1877(明治10)年、1885(明治18)年に大流行したが、鵠沼村における具体的な数値は見つからない。大地震明治時代の震災としては1880(明治13)年2月20日、1894(明治27)年6月20日(関東南部を中心強震。震度6。M=7。横浜・川崎地区被害あり。安政江戸地震以来の烈震 )、翌1895(明治28)年10月11日、1905(明治38)年6月7日(M=7.5震度6.2)、1909(明治42)年3月13日(M=7.0震度5.1)が記録に残っている。三留栄三医師の遭難どうも、明治時代の鵠沼は、何か新しいことを始めようとすると、事故でケチが付くことが重なった。その例を3つほど紹介しよう。別項を立てて詳説する予定だが、1886(明治19)年7月18日、前年の鎌倉、大磯に次ぐ相模湾岸3番目の海水浴場として鵠沼海岸海水浴場が開かれた。当時の海水浴場は、医学的な立場から、健康法の一つとして推奨された。鵠沼海岸海水浴場の場合、腰越の漢方医=三留栄三医師の推奨によるといわれる。 ところが三留栄三医師は、開場式で飲酒後海に入り、溺死された。鵠沼海岸海水浴場最初の事故死亡者になったのである。 初の鉄道事故鵠沼海岸海水浴場開場の翌年1887(明治20)年7月11日、鉄道(現JR東日本東海道本線)が開業し、鵠沼村の中央を横断して線路が敷設された。それから20日目の7月31日、鵠沼村鉄道にて工夫1人が鉄道事故に遭い、即死するという事件が起きた。これは、鉄道開通後初の交通事故と思われる。江ノ電開通と脱線事故1902(明治35)年9月1日、江之島電氣鐵道の藤澤―片瀬(現江ノ島)間が営業運転を開始した。ところが、藤ヶ谷付近のカーブで脱線、負傷者が出るという事故を起こした。当時帝大3年生だった寺田寅彦は、初乗りマニアだったらしい。前日から藤沢の「角若松」に泊まり、江之島電氣鐵道1号電車に乗り込んだはいいが、上記事故で徒歩となり、江の島の「金亀楼」に泊まっている。 寺院の被災空乗寺は、幕末に強風で本堂が倒壊し、再建されたが1870(明治3)年に暴風のため再度倒壊した。厚木の古寺を譲り受けて建て替えられたのは1907年とも1909年ともいわれる。万福寺は1897年(1899年とも)に、火災で焼失した。火災のことを荒木良正老師は次のように伝えている。 「○ 火防の太子―源海上人が尊信した聖徳太子の木像は、度々の火事を消し止めたので「火防の太子」と呼ばれていた。江戸時代の明暦元年(一六五五)に当寺が出火の際、当寺の内陣に不思議な足跡が幾つも床上に黒く焼きついて残っていた。そして尊体を拝すると、お足の跛が焦げているので、足跡を比較してみると、太子の足跡に相違ないので、これは太子のお木像が火を踏み消したまうたのだと分明して、それから諸人は「火防の太子」とよんで、益々尊信するようになった。 」 「○ 豊太閤の制札―天正十八年(一五九〇)七月、小田原城は開城し、百年に亘り関東に威を張った北条氏は終に亡びた。豊臣秀吉は当寺の第十世、唯順に制札を与えて、軍勢の狼藉を禁じた。この制札は、後年、火災のため焼失したが、写しだけが残っている。」 「○ 蓮如上人筆の名号―宝徳元年(一四四九)本願寺の蓮如上人は東国教化のため下向した時、鎌倉遊覧を終えて当寺に立ち寄り、住持了願に自筆の六字名号を授けられた。その名号は後年火災の時、文字ばかり焼け失せ、表具等は少しも損じなかった。不思議なことヽして今に伝えている。」 学校火災1909(明治42)年3月13日、尋常高等鵠沼小学校、過失により出火したとある。被害は僅少だったという。この段階では、校舎はまだ普門寺の境内にあったはずである。
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