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第0109話 明治時代の災害

県下に暴風雨来襲

 明治時代は暴風雨による災害が多く記録されている。
 鵠沼村における具体的な被災記録は少ないが、この時代までは境川(片瀬川)、引地川両河川とも砂丘地帯を自由蛇行していたから、地図が発行される毎に流路が変わるほどだった。
 下の年表に見られるように、1869(明治 2)年、1872(明治 5)年、1873(明治 6)年、1875(明治 8)年、1876(明治 9)年、1877(明治10)年、1878(明治11)年、1879(明治12)年、1880(明治13)年(2回)、1881(明治14)年、1884(明治17)年と、毎年のように暴風雨に襲われ、その後はなぜか間隔が開いて、1896(明治29)年、1897(明治30)年、1899(明治32)年、1901(明治34年、1904(明治37)年、1905(明治38)年、1906(明治39)年、1907(明治40)年、1910(明治43)年、1912(明治45)年と、また連続している。

海難事故

 明治時代には、鵠沼沖で2回の海難事故が起きている。
 先ず、1872(明治 5)年、鵠沼沖で4艘が難破し、溺死者10人(うち6人が相州三浦郡菊名村法昌寺住職ららしい)を出したことは、第0102話で紹介したところである。
 次いで1896(明治29)年7月20日、鵠沼海岸沖で三河の千石船が暴風により難破した事件である。この遭難者の供養のため、竜宮橋の近くに龍王社を祀ったが、現在は辻堂浜見山の漁協の脇に移されている。

コレラ禍

 コレラは、日本では1858(安政5)年に大流行し、藤澤宿とその周辺でも149人の死者が出たと記録に残っている。明治時代になってからは、1877(明治10)年、1885(明治18)年に大流行したが、鵠沼村における具体的な数値は見つからない。

大地震

 明治時代の震災としては1880(明治13)年2月20日、1894(明治27)年6月20日(関東南部を中心強震。震度6。M=7。横浜・川崎地区被害あり。安政江戸地震以来の烈震 )、翌1895(明治28)年10月11日、1905(明治38)年6月7日(M=7.5震度6.2)、1909(明治42)年3月13日(M=7.0震度5.1)が記録に残っている。

三留栄三医師の遭難

 どうも、明治時代の鵠沼は、何か新しいことを始めようとすると、事故でケチが付くことが重なった。その例を3つほど紹介しよう。
 別項を立てて詳説する予定だが、1886(明治19)年7月18日、前年の鎌倉、大磯に次ぐ相模湾岸3番目の海水浴場として鵠沼海岸海水浴場が開かれた。当時の海水浴場は、医学的な立場から、健康法の一つとして推奨された。鵠沼海岸海水浴場の場合、腰越の漢方医=三留栄三医師の推奨によるといわれる。
 ところが三留栄三医師は、開場式で飲酒後海に入り、溺死された。鵠沼海岸海水浴場最初の事故死亡者になったのである。

初の鉄道事故

 鵠沼海岸海水浴場開場の翌年1887(明治20)年7月11日、鉄道(現JR東日本東海道本線)が開業し、鵠沼村の中央を横断して線路が敷設された。それから20日目の7月31日、鵠沼村鉄道にて工夫1人が鉄道事故に遭い、即死するという事件が起きた。これは、鉄道開通後初の交通事故と思われる。

江ノ電開通と脱線事故

 1902(明治35)年9月1日、江之島電氣鐵道の藤澤―片瀬(現江ノ島)間が営業運転を開始した。ところが、藤ヶ谷付近のカーブで脱線、負傷者が出るという事故を起こした。
 当時帝大3年生だった寺田寅彦は、初乗りマニアだったらしい。前日から藤沢の「角若松」に泊まり、江之島電氣鐵道1号電車に乗り込んだはいいが、上記事故で徒歩となり、江の島の「金亀楼」に泊まっている。

寺院の被災

 空乗寺は、幕末に強風で本堂が倒壊し、再建されたが1870(明治3)年に暴風のため再度倒壊した。厚木の古寺を譲り受けて建て替えられたのは1907年とも1909年ともいわれる。
 万福寺は1897年(1899年とも)に、火災で焼失した。火災のことを荒木良正老師は次のように伝えている。
「○ 火防の太子―源海上人が尊信した聖徳太子の木像は、度々の火事を消し止めたので「火防の太子」と呼ばれていた。江戸時代の明暦元年(一六五五)に当寺が出火の際、当寺の内陣に不思議な足跡が幾つも床上に黒く焼きついて残っていた。そして尊体を拝すると、お足の跛が焦げているので、足跡を比較してみると、太子の足跡に相違ないので、これは太子のお木像が火を踏み消したまうたのだと分明して、それから諸人は「火防の太子」とよんで、益々尊信するようになった。 」
「○ 豊太閤の制札―天正十八年(一五九〇)七月、小田原城は開城し、百年に亘り関東に威を張った北条氏は終に亡びた。豊臣秀吉は当寺の第十世、唯順に制札を与えて、軍勢の狼藉を禁じた。この制札は、後年、火災のため焼失したが、写しだけが残っている。」
「○ 蓮如上人筆の名号―宝徳元年(一四四九)本願寺の蓮如上人は東国教化のため下向した時、鎌倉遊覧を終えて当寺に立ち寄り、住持了願に自筆の六字名号を授けられた。その名号は後年火災の時、文字ばかり焼け失せ、表具等は少しも損じなかった。不思議なことヽして今に伝えている。」

学校火災

 1909(明治42)年3月13日、尋常高等鵠沼小学校、過失により出火したとある。被害は僅少だったという。
 この段階では、校舎はまだ普門寺の境内にあったはずである。
鵠沼地区明治時代災害年表    
西暦 和暦 記                        事
1868 明治 1     旱損凶作
1869 明治 2 7 13 暴風雨武相の村々被害
1870 明治 3     空乗寺、暴風のため再度倒壊
1872 明治 5 6 暴風来襲し、鵠沼沖で難破船4艘、溺死者10人[現在の藤澤]。引地川出水
1872 明治 5 7 22 鵠沼海岸4-6地先龍宮橋入口角の精霊供養塔(文字塔)、造立
1872 明治 5 7 23 万福寺墓地の海難死者墓碑(相州三浦郡菊名村法昌寺住職ら6名)、造立
1873 明治 6 9 23 暴風雨市中家屋倒壊多数 浸水河川氾濫
1875 明治 8 8 10 県下に暴風雨来襲
1876 明治 9 9   暴風雨来襲
1877 明治10 3 21 県下に暴風雨来襲
1877 明治10 10 11 県下に暴風雨来襲※全国にコレラ流行死者6817人
1878 明治11 7 4 県下に暴風雨来襲
1879 明治12 9 11 県下に暴風雨来襲
1880 明治13 2 19 県下に暴風雨
1880 明治13 2 20 強震。藤沢で家屋の破損19。酒類流出1石4斗[現在の藤澤]
1880 明治13 4 25 県下に大雨氷雨
1880 明治13 8 25 県下に暴風雨
1880 明治13 10 3 〜4、県下に暴風雨
1881 明治14 9 14 県下に暴風雨
1884 明治17 9 15 台風(紀伊半島〜東京北部縦断)により県下に暴風雨。被害激甚
1885 明治18     コレラ流行、県内で死者10万人以上
1886 明治19 7 18 鵠沼海岸海水浴場開場。提唱者の三留栄三医師、飲酒後泳いで溺死。享年37
1887 明治20 7 31 鵠沼村鉄道にて工夫1人鉄道事故、即死
1894 明治27 6 20 関東南部を中心強震。震度6。M=7。横浜・川崎地区被害あり。安政江戸地震以来の烈震
1895 明治28 10 11 関東に震度4。横浜港内被害あり
1896 明治29 7 20 鵠沼海岸沖で三河の千石船が暴風により難破→供養のため龍王社を祀る
1897 明治30 9 9 暴風雨。暴風雨とうんかにより収穫2割減
1897 明治30 9   万福寺本堂、焼失(※1899年説あり
1899 明治32 9   万福寺本堂、焼失(※1897年説あり
1899 明治32 10 7 台風による高潮来襲
1901 明治34 12 26 県下に暴風雨 江の島架設橋流失
1902 明治35 9 1 江之島電気鉄道藤沢片瀬間営業運転開始。藤が谷付近のカーブで脱線、負傷者が出る
1902 明治35 9 1 寺田寅彦、江之島電気鉄道開通を期に江の島・鎌倉小旅行を企画するも事故で徒歩となる
1904 明治37 4   上藤ヶ谷北端の高砂砂丘、旋風による侵食の際に多数の土器が出土
1904 明治37 7 8 〜12、降雨による作物被害大
1905 明治38 6 7 地震(M=7.5震度6.2)
1906 明治39 7 14 水害により県南部に被害
1907 明治40 4   雷ひょうにより高座郡一帯被害
1907 明治40 8 23 県下暴風雨による大洪水
1907 明治40     鵠沼村空乗寺、厚木の古寺を譲り受けて建て替え※1909年説も
1909 明治42 3 13 尋常高等鵠沼小学校、過失により出火。被害僅少
1909 明治42 3 13 地震(M=7.0震度5.1)横浜地方煉瓦壁の崩壊等
1909 明治42     空乗寺23世=慶心、厚木の中古本堂を移築(現空乗寺本堂)※1907年説も
1910 明治43 3 3 19:30、二人組短銃強盗、福田良平宅(原文は別荘)に侵入
1910 明治43 8 1 〜14、関東・東北台風による豪雨 高座郡農作物被害大
1912 明治45     引地川出水 大庭耕地大泥湖水となる[市史資料第27集]
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鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭

[参考文献]
  • 久保 尚雄:「災害(天災)略年表」『鵠沼』第22号(1984)
 
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