HOME 政治・軍事 経済・産業 自然・災害 文化・芸術 教育・宗教 社会・開発


第0108話 一等國道東海道

東海道を一等國道に制定

 鵠沼村の北辺は、東海道によって区切られていた。この東海道筋がいつ頃から現在認識されている位置に固定化されたかは詳らかではないが、律令時代、都と坂東を結ぶ地域が「東海道」という名称の行政区画として成立した。この頃の主要街道は、足柄峠を越え、関本に至る。 元々足柄路は「東海道」の本筋であった。800年頃、富士山の噴火によって足柄が通行不能になって「箱根路」が拓かれると「東海道矢倉沢往還」と称されるようになった。しかし箱根路は急峻なため、足柄路が復興されると、中世までは矢倉沢往還が主要な街道筋であった。鎌倉時代になると、東海道は都と鎌倉を結ぶルートとして重要になるが、この時代の経路については、第0048話で考察しておいた。鎌倉時代の初期までは、大庭御厨鵠沼郷と称していた範囲の北辺が、第0048話で考察した①のルートになったのではないかと私は見ている。
 後北条の支配下では、玉縄城を結ぶルートが重要になったと思われる。
 徳川家康が1590(天正18)年に江戸に入城する。この頃の平塚と江戸の間は、中原街道が実質の東海道として機能しており、徳川家康もここを往来していた。徳川家康は、1601(慶長6)年に「五街道整備」により、五つの街道と「宿(しゅく)」を制定し、道としての「東海道」が誕生する。日本橋(江戸)から三条大橋(京都)に至る宿駅は、53箇所でいわゆる東海道五十三次である。又、箱根と新居に関所を設けた。その後、1603(慶長8)年には、東海道松並木や一里塚を整備する。
 東海道が整備され、藤澤宿が設置されると、1694(元禄 7)年9月、鵠沼村他43か村が藤沢宿の助郷(すけごう)村に確定した。このことについては、第0068話で解説した。東海道筋には引地・車田の集落が往来する旅人のための茶店や名産店が並ぶ街村として成立した。引地川には土橋「引地橋」が掛かっており、出水のたびに壊れたので、1786(天明 6)年閏10月、その普請を稲荷・大庭・羽鳥各村とともに請け負うことになった[引地橋組合儀定証文之事]。引地橋の東詰には「鍵の手(クランク状街路)」が設けられ、藤澤宿の西の防備線となっていた。
 1872(明治 5)年7月20日、「諸道伝馬所廃止人馬相對を以斷立しむ」という太政官布告第204號が出されて、助郷村の負担から解放された。
 1876(明治9)年の「太政官達第60号(道路ノ等級ヲ廢シ國道縣道里道ヲ定ム)」にて國道、縣道、里道が指定される。(道路を國道・縣道・里道のそれぞれ1等-3等に分類する等級制で、現在の番号による分け方ではない)。 その後、国道の等級は、1885年1月6日の「太政官布達第1号(國道ノ等級ヲ廢シ其幅員ヲ定ム)」により廃止された。
 1885(明治18)年2月24日、「内務省告示第6号(國道表)」にて、國道路線が番号を付与、指定される。 「國道1號(東京ヨリ横濱ニ達スル路線)」、「國道2號(同(東京ヨリ)大坂港ニ達スル路線)」となった結果、國道2號と改称された。
 1920(大正9)年4月1日、道路法に基づく「路線認定」が施行され、国道番号の順は、1番目が東京から神宮に達する路線、2番目が東京から各府県庁所在地に達する路線の順とされる。(現在の国道1号に相当するルートは、「國道1號(東京市ヨリ神宮ニ達スル路線)」、「國道2號(東京市ヨリ鹿兒島縣廳所在地ニ達スル路線(甲))」となる)。
  1952(昭和27)年12月4日、新道路法に基づく「路線指定」で、東京都中央区-大阪府大阪市北区間の「一級国道1号」として指定される。
  1963(昭和38)年 3月、藤沢バイパス開通に伴い、国道1号であった旧東海道部分(白旗交差点 - 羽鳥交差点間)が、神奈川県道43号藤沢厚木線に降格となる。なお、藤沢バイパスは、1965(昭和40)年4月1日、道路法改正によって一級・二級の別がなくなり「一般国道1号」となった。

引地と車田

 この旧東海道を境に南側が鵠沼村ということになるが、街道に沿った西側が引地、東側が車田という集落名になっている。引地・車田の境界線については、その線引きに諸説がある。一般的には現在の鵠沼神明四丁目と五丁目の境界線だが、もう一本西の道路だという説もある。いずれにせよ小字制定時には引地に統合され、さらに南側の内田と合わせる小字も用いられたようだ。
 引地の地名は、「皇国地誌」の記述「湯桶口ヨリ赤羽根村ヘ落室田高田円蔵ヲ経茅ケ崎ヨリ海ニ入シカ廃城トナリシ後各村ニテ彼湖開墾ノ際更ニ山脈ヘ流大庭ヨリ直チニ本村ヘ疏通シ海ヘ流セシモノ故ニ引地川卜称ス」にあるように、河川名が先にあり、それによって集落名ができたようである。
 車田の地名の由来については、川上恵久氏は次の4説を紹介している。
     O伊勢神宮に納める米を作った田で車の輪のように順番に廻リ作リをしたためという説。
     O昔の引地川が度々流れを変えたため車の輪のように田が移り変わったという説。
     O小栗判官を乗せた手車を作ったところだからという伝説。
     O廓があったので廓田といい、それが車田になったという説。
 小字引地の明治初期の住人は、「本村」9集落と共通する關根・淺場・斉藤・宮崎・森井といった姓も見られるが、榎本など、本村と共通しない姓も散見する。これは、引地が完全な出村ではなく、外部出身者もかなり見られたことを意味する。かつては皇大神宮の氏子集落だったというが、人形山車は持っていない。現在は、引地橋の普請を引き受けた稲荷・大庭・羽鳥各村とともに羽鳥の八坂神社の氏子集落として、引地独自の神輿を出す。
E-Mail:

鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭

[参考文献]
  • 川上恵久:「鵠沼の古道「江ノ島道」を歩く」『鵠沼』第73号(1996)
 
BACK TOP NEXT