|
助郷とは藤沢は1601(慶長6)年に江戸から5番目の東海道の宿場が置かれた。後に戸塚宿が追加され東海道6番目の宿場となる。藤沢は東海道五十三次整備以前から遊行寺の門前町であり、後北条時代は小田原城と支城の江戸城、八王子城をつなぐ街道の分岐点だった。遊行寺の東側に江戸側の見附(江戸方見附)があり、現在の小田急江ノ島線を越えた西側あたりに京都側の見附(上方見附)があった。この範囲が藤沢宿である。 境川に架かる大鋸(だいぎり)橋(現遊行寺橋)を境に、江戸側(左岸)の大鋸町(後に西富町が分立)は鎌倉郡、京都側(右岸)の大久保町、坂戸町は高座郡に属した。 1594(慶長元)年、徳川将軍家の宿泊施設「藤沢御殿」が建てられた。現在の藤沢公民館と藤沢市民病院の間にあり、東西106間、南北62間の広さだったという。表御門は南側、裏御門は東側にあった。徳川家康、秀忠、家光と30回近く利用されている。1682(天和2)年まで設置。以後廃された。現在でも御殿橋、陣屋小路、陣屋橋などの地名が残る。 1694(元禄 7)年9月、鵠沼村他43か村が藤沢宿の助郷(すけごう)村に確定した。これはいわゆる「定助郷(じょうすけごう)」の数であり、これ以外に寒川方面の5か村が代助郷になったらしい。 助郷は、労働課役の一形態で、江戸時代に徳川幕府が諸街道の宿場の保護、および、人足や馬の補充を目的として、宿場周辺の村落に課した賦役のことをいう。 初めは臨時で行われる人馬徴発であったが、参勤交代など交通需要の増大に連れ、助郷制度として恒常化した。 助郷の賦役は、宿場近隣の村々に多大な負担を強いた。藤沢宿に関しては、次のような記録が残っている。 1771(明和 8)年 藤沢宿助郷村々、助郷軽減願を提出 1786(天明 6)年3月24日 藤沢宿助郷49か村、助郷役正人馬差出の免除及び前年の上納金返済を代官所へ願書提出 1834(天保 5)年12月 藤沢宿問屋と定助郷組22か村、人馬賃銭の授受・人馬の割付を巡り争論 1871(明治 4)年12月、東海道各宿の助郷は廃止された。 助郷村鵠沼藤沢宿に隣接する鵠沼村は、助郷の負担は他の村々よりも厳しかったに違いない。引地川には土橋が掛かっており、出水のたびに壊れたので、1786(天明 6)閏10月、その普請を稲荷・大庭・羽鳥各村とともに請け負うことになった[引地橋組合儀定証文之事]。1803(享和 3)年4月には、架け替え工事が終了した翌月の出水で流失するという笑えない事件も記録されている。 宿場には様々な情報や文化が流入する。また、様々な文化人の活動が見られた。こういったものは隣村の鵠沼には即座に伝えられた。 万福寺墓地には、藤沢宿の旅籠「大磯屋」を営んでいた猪飼家の墓地があり、中には飯盛女の墓もあるという。 藤沢宿の永勝寺墓地にある「小松屋」の墓には飯盛女の墓が39基あり、市教委の解説板が建てられているが、万福寺には特に解説はない。. 藤沢宿大鋸町では、飯盛女のいない宿場がさびれたため、1861(万延 2)年宿民のためとして1旅籍屋2名の飯盛女を置く許可を役人から得たという。当時藤沢宿には、旅籠が49軒あり、このうち飯盛女を抱えたのは29軒だった。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|