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第0103話 戸別番号

戸別番号

 明治維新直後、先ず1870(明治 2)年に1番から267番までの戸別番号がつけられた。有賀密夫氏は1980年代に二人の教え子を助手に旧鵠沼村の戸別番号がつけられた家の現状を悉皆調査をされた。その結果、世帯数は285世帯だろうということが判明した。同一家屋に2〜3世帯が暮らしていたり、離れが建っていても同一番号になっているというケースがあるからである。
 調査結果は、総合市民図書館の『わが住む里』第43〜45号に「明治初期の鵠沼村」と題して報告された。
 それをインターネットで見られるような形にまとめて「鵠沼を語る会」のホームページに掲載した。一つは地図の形でまとめ、さらにそこから上部別ウインドウに一覧表の一部を検索できるようにした。もう一つは一覧表の全体像であるが、これは鵠沼を語る会のサイトから直接見ることが困難であるが、このサイト下部の[参考サイト]をクリックすると見られるようにしたので、参照されたい。
 さて、戸別番号はどのように付いているかは、既に第0007話で一覧表の形で紹介したように、上村(かむら)の宮崎家を1番とし、1-11が上村、12-57が宮ノ前、58-71が宿庭(しゅくにわ)、72-91が清水となっている。ここまでが皇大神宮の例祭に社前に幟を立てる4町内である。続いて92-118が苅田、119-157が原、158-178が堀川、179-184が納屋(なんや)と、次第に南下し、ここから北に反転して185-201が仲東(なかひがし)、202-220が大東、さらに221-227が新田(しんでん)、228-239が石上と東進し、最後に240-267が最北部の引地(車田を含む)となっている。
 この14集落が明治初期に人が住んでいた場所ということになる。 

明治初期の鵠沼村居住者

 有賀密夫氏はこの調査で明治初年段階での戸主名と屋号を調べられた。
 現在でも本鵠沼や鵠沼神明居住者には同姓の方が多いことに気付く。明治初期はさらに限られたものであった。關根家だけでも34戸と、11%程になることは、第0055話でも紹介した。その主立ったものをグラフ化してみた(下図)。
 この他、屋号の分類も試みている。     
E-Mail:

鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭

[参考文献]
  • 有賀密夫:「明治初期の鵠沼村」『わが住む里』第43〜45号(1992〜1994) 
[参考サイト]
 
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